コレニテオシマイ

 からん、とグラスの中の氷が音を立てて沈む。炭酸の気泡が氷にまとわりついては爆ぜて消えるのを見ながら春彦はるひこは眉間に皺を寄せていた。正面には顔の引き攣ったまことと、ぼんやりと窓の外を眺める夕雪ゆきが頬杖をついている。
 春彦はそっと自分の隣の空いた席を見た。そこは白髪の後輩がいつも座っている席のはずで。しかし本来そこに座って自分たちとだべっているはずの姿がない。
 虚しさを感じながら春彦は秋奈の言葉を反芻していた。
 

 明彦と連絡が取れなくなったのはいつ以来だろうか。いつもならメッセージを送ればすぐに返事が来るはずの後輩から一向に返ってくることはなく、最近行動を共にするようになった彼と同級の優等生に話を聞けば教師を殴って停学になったと聞かされた。明彦の質を考えれば、特に珍しくない行動だったので停学明けにでもからかいついでに飯でも奢ってやろうと思っていた。
 その時点で思い出すべきだった。明彦は停学でも呼べば出てくるくらいには不良少年だったことを。
 そこから明彦のいない日常が始まった。既読もつかない、電話も出ない。ついにしびれを切らせた夕雪が綾小路邸へ赴けば彼の叔母は苦々しげにいないと告げた。

「もうあれに関わらない方がいい。君たちの為にもな」

 言葉と表情がちぐはぐとしたその答えに夕雪は違和感を覚えて畳み掛けるように口を開きかけて、拒絶するように閉じられた引き戸に言葉を紡げなかった。
 真や昔の連れも巻き込んで明彦の姿を探すも見つからず、春彦も夕雪も真も途方に暮れる他なかった。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆ 

「あきっちそっちいった、そっち!」

 庭木の声に反応して明彦は踵を返して駆け抜ける。目の前の背中目掛けて思い切り踏み込み跳躍し、足を叩き込む。汚い声と共に倒れた男の背中にのし掛かり口を布で塞いで縛り上げ、腕をひねり上げた。
 くぐもった悲鳴を上げる男を見ながら明彦が視線を上げれば軽く息をあげている庭木がニンマリと口の端しを釣り上げるところだった。

「あきっちすっごいねぇ……俺っちでも追いつけなかったのに。つーかキックかあれ!? めっちゃ飛んでなかった!? 当たるまでの音すごい離れてたよォ!?」
「割とうまくいった」

 ふん、と鼻を鳴らしながらそう伝えるとノリでやっちゃう? と興奮で上擦った声で庭木が突っ込んだ。まあ、できたもんはできたし、と明彦は未だにもがく男を見下ろす。芋虫のようにぐねぐねと身じろぐ様がなんとも言えなくて、明彦はゆっくり立ち上がり男の腹に自分のつま先をめり込ませた。
 うぐ、と一際大きなうめき声と共に男の動きが止まる。

「ひぇ、容赦ないねえ~」
「いーだろ別に。静かになるんだし」
「……そーねぇ。ま、連れてこっか。こっからまたお仕事しないとだし」

 へいへい、と無造作に男を担ぎ上げる明彦を、庭木はじっと見る。
 イーノックに蹂躙されたあの日以来、明彦からためらいが消えた。最初は自分の気のせいかと思った庭木だったが、慈淵や水澄からも同じような意見が出た時、前髪に隠れた眉根を僅かに寄せたのは記憶に新しい。少し前までただやんちゃなだけだった学生が、喧嘩ではない一方的な暴力を前に表情一つ動かさなくなった。以前のように嘔吐せず、呼吸も乱れず、話しかければ短くとも返事が返ってくる。だからと言って決して無感動ではないのだ。先ほどのように得意気ですらある。まるで、普通の子供みたいに。
 普通の反応を返してくるようになった明彦に庭木は嫌な予感を抱いた。
 

 一瞬、白いものが揺れた気がして春彦が後ろを振り返る。だが背後には何もなく落胆しかけ、前を向こうとして、固まった。自分の歩いている大通りから一歩、薄暗く入り組んだ細い路地の奥で白い頭とうさぎの耳を模した飾りのついたパーカーが揺れたのをみた。大きな荷物を担いだ白い方が、パーカーの方へ振り返る。
 それを目視した瞬間、春彦はその方向へ走り出した。後ろから戸惑ったように自分を呼ぶ真と夕雪の声を何処か遠くへ感じながら、視線の先の二つの影を追いかける。呑まれるように奥へ奥へと暗がりへ進んでいくその背中に、春彦は耐え切れず叫んだ。

「アキっ!!」
 

 ぴくりと、明彦が動きを止める。当然明彦を呼んだであろう声は庭木にも聞こえていた。しかし視力のほどんどない庭木には今の明彦がどんな表情をしているのか見ることが出来ない。

「……オトモダチ?」
「知らねえよ」

 間髪入れない返答だった。ただその声に諦観が混ざったのを確かに庭木は感じた。しかし声を掛ける前にぐ、と男を明彦から押し付けられる。その行動がそのまま明彦のしたいことに繋がっていると気づいて庭木は警告を含ませ言葉を発した。

「巻き込みたかったら、どうぞ?」
「そんなんじゃねえし」

 忌々しげな、しかし意外な返答を寄越した明彦に虚をつかれる。その間に明彦は袋小路の方へ駆けていく音を聞きながら、まぁいいやと庭木は踵を返して事務所へ向かった。
 

 くそ、と悪態をつきながら春彦は足元の悪い路地を抜けていく。人はいたが聞いてる暇はない。目の前で揺れる白に確信めいた何かを抱いて只追いかける。しかしその反面、明彦自身がいくら珍しい外見をしていたとしても本当にこれは明彦なのか?と言う疑問も湧き上がる。
 なぜなら振り向かないのだ、その白が。自分が声をかければ本当に嬉しそうに振り向く後輩と全く違う反応にいつもなら掃いて捨てても尚有り余る自信が削られていく。それでも、春彦はアキと彼を呼び続けた。
 やがて袋小路に出た。と言っても先程までの路地よりも少し広いくらいの空間で、ギリギリ男二人が並べるくらいの、そんな粗末な行き止まりだった。視認できる距離にいる男は間違いなく自分の後輩だった。

「おいアキ! 無視すんな!」

 ふぅ、と大きな息をつきながらゆっくりと明彦が振り返る。息を切らせていた春彦が目を見開く。学ランではなく黒いジャージを着た、記憶よりもピアスが増え髪が伸びていたがそこにいたのは間違いなく自分の後輩だった。

「何処ほっつき歩いてたんだよ、オラ帰んぞ」
「……」
「メールも電話も無視しやがってよー、ユキもマコもシカトされて腹立ててんだ。飯奢るくらいじゃすまねえぞ」
「……」
「なんか言えよ」

 懇願するように明彦を見た春彦は固まった。凍りついたような赤い両目が、春彦を見下ろしている。春彦が知っている赤い目は口下手な分、雄弁に感情を灯していたのに。
 目の前にいる男は、誰だ。
 黙り込んだ春彦を見ながら明彦がゆっくり口を開く。

「ハルさん、帰ってください」
「はぁ?」
「もう二度と、アンタと一緒につるまねえし俺は帰らないんで」
「何言って」
「ハルさん」

 春彦の声を遮って、明彦が大股で歩み寄る。顔を上げた春彦の首にぴたりと冷たいものが当てられて。一瞬感じた小さな痛みに春彦は明彦が自分に宛てがっているのが刃物だと理解した。

「何、馬鹿なことしてんだ? お前」
「これ以上喋んな。話すことはなんもねえ。時間が無駄だ。失せろ。今すぐに」

 硬質な声に、敬語ですらなくなったそれに春彦は瞠目した。だが、明彦の顔を見て呆然とする。

「アキ、お前……」
「消えろ、殺すぞ」

 ぐ、と首元の金属に圧がかけられる。春彦が縋るように明彦を見たときには感情が抜け落ちたような顔になっていた。
 春彦が唇を噛み締めながら言われるまま、刃物を押し付けられるまま背中を向ける。とん、と背中を押されたと思って振り返った時には既に明彦はいなかった。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆ 

 自宅で芳は前髪をかきあげていた。膨大な資料を捌き、情報の整理や今後のイーノックの行動パターンを割り出しどう動いていくかを綿密に練り上げる。ただ、相手は常識が通じない異常者だと思うと、今していること全てが無駄な気がして、前髪を掴んだ手でそのまま頭を掻き毟りたくなる。

『一段落できた?』

 何処かからかうような声が、つけていたヘッドセットから聞こえて来て芳は露骨に顔をしかめる。

「茶化さんといてください悠理ゆうりさん」
『ごめんごめん、ビデオ通話でもないのに今君がやってることが見えちゃって』
「……相変わらず性格の悪い」
『君には負けるよ』

 くすくすと聞こえてくる笑い声に舌打ちして芳はパソコンに向き直る。そのままなんの躊躇いもなく煙草の箱に手を伸ばして引っ掴み、空箱だと気づいて屑籠へ放り投げる。外れて床を滑ったそれには目もくれず新しい煙草を開けて咥えてライターをつけようとすればオイル切れ。苛立ち紛れに壁に叩きつければその音が聞こえたのかまた悠理の軽い笑い声が聞こえて芳は居た堪れなくなった。

『ライター、エレに頼んで届けてあげよっか?』
「いらんがな!! 自分で買うてくるっちゅーねんそんくらい!!」

 俺を小間使いにすんじゃねえよ! と悠理の背後で男の声が聞こえて「ほれ怒っとるで自分の相方」と一本とったと言わんばかりに言い返せば彼はいつもああだから、としれっと返される。芳の苛立ちは募る一方だ。と、楽しげだった悠理は声のトーンを下げる。
 
明愛栞めありちゃんと会堂さんがアリングハム氏の犯罪経歴データと状況データ洗い出してくれたよ』
「!」
『あとヤマさんも張ってくれて、彼の拠点をいくつか』
「うわ、まじかよすげえな」

 思わず標準語に戻った芳を、しかし悠理はからかうことはしなかった。ここ数日彼の作業に付き合った身の上としては失敗されると自分の労力も無駄になる。今芳の気を散らすのは良くないとそのまま続けた。

『まあヤマさんも勘付かれない距離とってるから精度は信じないで、ってことだったんだけど』
「かまへんわ。なんぼで売ってくれるん」
『舌先先生が結構危ない仕事だったから割増しろって言ってたんだけどいい?』
「ええわ、言い値で」

 個人では全く裏の取れなかったイーノックの所在を、大まかとはいえ掴んだ悠理の、舌先事務所の面々に内心舌を巻きながら悠理の提示した金額をネット経由で入金する。暫くの沈黙の後、悠理が確認取れたよと言う返事が来た。

『渡すのは君の小飼の情報屋君でいいのかな?犯罪者君寄越されると困るんだけど』
「ああ、庭木でええわ。流石に探偵相手に水澄や慈淵向ける勇気あらへん」
『あはは! 仕事のしすぎて頭がイカレてなくてよかったよ。じゃあうちに取りに来てもらえるよう伝えてくれるかな? あ、窓から入ってくるのもやめてって言っておいて』

 ご近所さんに説明するの面倒なんだよね、と呆れたように言う悠理に適当に返し通話アプリを落とす。そのまま明彦へ庭木への伝言とお前は一旦帰ってこいとメッセージを入れて芳は煙草を咥えて——ライターのオイルを切らせているのを忘れてた、と台所へ向かった。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆ 

 春彦の話を聞き終えた瞬間ぐしゃ、と手に持っていた紙コップを夕雪が握り潰す。それをみた真が来栖さん!? と小さく悲鳴をあげていたが春彦も夕雪も無言だった。普段表に感情を出さない(出すのが苦手と本人は言っているが)夕雪がここまで露骨に動揺するのは珍しい。紙コップに残っていた中身が手を伝い、地面へ染みを広げていく。
 沈黙を裂くように夕雪が立ち上がり、春彦と真へ視線を向ける。

「もう一度綾小路さんのとこ行くけど、来るよね?」
「え、いや、俺は」
「行く」
「さすハル。マコも来るでしょ。来い」
「……はい」
 いつも通りの淡々としている声なのに、何処かガラスの断面のように鋭く感じて真は肯定するしかなかった。

 善は急げと急行した綾小路邸門前で、夕雪が呼び鈴を押そうとして春彦に止められる。

「あのオバサンのことだ、ピンポン鳴らして素直に出るかよ」
「わかる。任せていい?俺成人だし警察呼ばれると困る」
「任せろ」
「えっあ、朝桐さん……? 何をす」
「あーやーのーこーうーじーさーーーーーーーーーーーーん!!!」

 鼓膜が破れたと錯覚する程の大音量で突然春彦が叫んだ。防げなかった真はきんと痛む耳を抑える。春彦の行動を読んでいた夕雪はと言うと先んじて耳を塞いでいた。直接鼓膜にダメージを受けたのは真だけである。
 春彦の声が消え、しんと住宅街に静けさが戻る。しかし目の前の引き戸は以前閉じられたままだ。春彦がチラリと夕雪を見る。

「OKハル、アンコール」
「あーやーのーこー……」
「喧しいわ!!!」

 ばん、と乱暴に引かれた戸がぎしりと悲鳴を上げる。すっと前に出た夕雪の目の前には額に青筋を浮かべた秋奈が仁王立ちしていた。背後では涙目の栞がおろおろと両手をあげて狼狽えている。

「近所迷惑だ! 帰れ!」
「すいません、呼び鈴だと無視されるかなって」
「小賢しいぞ考え方が!」
「ですよね。で、アキのことなんですけど」

 そこまで言いかけた瞬間秋奈が勢いよく引き戸を締めようとする。真が反射的にその戸を掴み締まり切るのを防いで、口を開く。

「綾小路さん本当にご迷惑おかけしました! けど流石に前の説明じゃ俺たちも納得できないんです! もう少しだけお話を聞かせてくれませんか!?」
「……夏海のとこの坊ちゃんか」

 面識のある人間の息子だからか、秋奈の声から険悪さが僅かに和らぐ。だが見上げる目は未だに鋭く、自分より低い位置から睨み上げられて真は一瞬怯む。
 援護だと言わんばかりに春彦が夕雪の背後から乗り出した。

「俺、アキに会ったんすよ。アイツ前とすんごい様子変わってて、けど何も話してくれなかったんだ。綾小路さんもあんま詳しく教えてくんなかったっしょ、だから納得できないんだよ」
「……逆に聞くが何故あれにこだわる? 私があれと仲をこじらせて追い出したとは思わんのか?」

 質問が帰ってきて真と夕雪は言い淀む。しかし春彦だけは真っ直ぐ秋奈を見返して即答した。

「アキが俺の後輩でこいつらのダチだから以外に理由がいるんすか? そもそも、アンタがアキと喧嘩したくらいで追い出すなんて思えねえんすよ」

 じゃなきゃあ実家から飛び出したアイツはもっとグレてた。
 断言した春彦に秋奈は目を見開いた。暫くの沈黙の後、秋奈は諦めたように引き戸を掴む手を緩めた。突然抵抗のなくなった引き戸に手をかけていた真が転びかけるが夕雪が引っつかんで支える。

「栞、彼らにお茶を。入りなさい、私の知る範囲でだけ教えよう」

 そう返事をして、秋奈は踵を返す。三人は顔を見合わせた後、慌てて秋奈の背中を追った。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆ 

 がちゃ、と無言でドアが開けられる。するりと入り込んできた明彦を一瞥すると芳は再びパソコンの画面へ目を向けた。そのまま何も言わず事務机に近寄った明彦は無造作に分厚い封筒を投げ捨てる。

「庭木さんから預かった」
「ご苦労さん。今日もう休み」

 それだけ交わして、明彦が踵を返す。と、その背中に向かって芳が声を掛ける。

「飯食うたん?」
「食ってねえ」

 それだけ言うと明彦は足早に部屋から出て行く。
 その様子に芳はひっそりと息をつこうとして、止めた。庭木や慈淵から、明彦の様子が普通だと知らされたのを思い出す。最初、その『普通』が常人のそれだと芳は思った。人の死、それも殺人が目の前で行われ、甚振られ、物言わぬ骸になっても尚辱められるそれらは嘗て芳も夢で魘されるほど精神に負担がかかっていた。明彦も未だに慣れないのだろう、と。それでいいと芳は思っていた。それが『普通』なのだ、世間での当たり前なのだと。例え心が軋もうとも、明彦はそのままでいいのだと。
 だが自分と彼らの報告に齟齬があると思ったのは、先日水澄の報告を受けた時だ。

『彼、最近上手くなってきたのです。褒めると嬉しそうなんですよ』

 抑揚のない言葉に、芳は首を傾げた。褒めると喜ぶのは以前、それこそ明彦が芳の元へ転がり込んでくる前から知っている。芳が明彦を素直だと称するのはそこだからだ。だが、水澄のいう『上手くなった』とは何を指している? その時は深くまで考えなかった。ああ、明彦も上手くなっているのかと考えて、小さな違和感を素通りした。そして庭木と慈淵からの知らせを反芻してぞっとした。

『あきちゃんさぁ、自分で止めはさせてねぇんだけど前みたく吐かなくなったず。ふっつーに人刺すし?』
『かおっちー、あきっちに獲物捕まえてって頼んだらさーそいつの腕おっちった! ……やばくない?』

 彼らの『普通』と明彦の『普通』は違うことにどうして気付けなかったのかと芳は愕然とした。明彦にとって人の生き死にが、人が傷つくことが『普通』な訳でなかったはずなのに。
 そして先ほどの明彦の顔を思い出して芳は慌てて立ち上がる。彼にあてがった部屋へ飛び込むもそこはもぬけの殻だった。

「やられた・・・・・・!」

 芳は今度こそ頭を抱えて掻き毟った。急いで端末で庭木や慈淵と連絡を取る。血色の悪い、彼本来とは違う病的に青白い顔。そこに浮かべていた表情は到底生を連想できるものではなかったと、今更気がついた。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆ 

「私の現状知りうる話はこれで全てだ」

 硬い声でそう締めくくられた秋奈の話の内容に、三人は何も言えなかった。余りにも内容が信じられず、何処かドラマの中の話なのではないか、とも錯覚してしまうほど荒唐無稽な話だと少なくとも夕雪は思った。しかし苦々しげに歪められた秋奈の顔が、背後で立って待機している栞の悲痛な顔が、それが事実だと痛いほどに告げてくる。真は震える唇でどうしたら、とぼやいていたが春彦に関しては眉間に皺を寄せて黙り込んでいる。

「到底信じられないという顔だな。私とてこれが嘘ならどれだけいいかと思ったさ」
「間違いないんですか。それは」

 なんとか振り絞っただろう、真の問に秋奈はため息をつきながら、重々しく口を開く。

「明彦の面倒を見ている男がいてな。それがそう言う世界に精通しているのだ。知り合った経緯は省略するが、奴が言う事だ。間違いはなかろう」
「そう言う世界にいるんなら騙されてると思わないんですか!? そんな、犯罪者の言うことなんて……!」
「表向きは探偵だからな。探偵というのは顧客との信用関係が第一だ。私を騙した時点で私が奴の評判を落とせば仕事がなくなるデメリットしかない。何より私の甥をどうこうして私を出し抜いたところであの男に利点も何もないのだ。せいぜい小間使いが増えると言う程度さ」
「そんな男に、どうして預けようと思ったんですか」

 そう聞いたのは夕雪だった。熱くなりすぎて畳み掛けようとした真を制するように前のめりになる。当の真は春彦に腕を掴まれ後ろに引き戻されていた。気持ちはわからないでもないけど、と夕雪は思いながら秋奈の言葉を待つ。

「……付き合いが長いのもある。何よりあれは身内には甘い」
「アキと仲がよかった、ということですか」
「いや、そういう訳ではなかったが。強いて言うなら奴も明彦に習っていることがあってな」
「あ、わかった。飯だろ? アキが人に教えられるのってそれくらいだろーし」

 春彦が得意げに指を立てながらそう言いきったのを秋奈は呆気に取られて目を丸くする。一拍置いて吹き出しながら、何処か柔らかくなった声でそう言えば、胃袋を掴まれていたなぁと呟いた。

「まあ、あれにはあれの筋がある。情の有無は兎も角私よりも立場が低い。それに自分のヘマで明彦を巻き込んだ様なものだ、何がなんでも汚名返上してくるだろうさ。私があの男の顧客になったのはそういう所があったからだなぁ……さて話を戻そう。私としては君達の安全を保証出来ないから、もう明彦に近寄るなと言うしかないのだ」

 あれの保護者としてもな、と短い眉を八の字にして秋奈が言う。食ってかかろうとした真を今度は夕雪が止める。どうして、と唇を戦慄かせた真に良いから、と夕雪が首を横に振った。
 そして黙っていた春彦が口を開いた。

「別に安全なんていらねえよ。居た奴がいなくなって、萎える毎日送るよかマシだ」
「そうか。だが私は君達に明彦の所在は伝えないぞ。明彦の友人たる君達が居なくなるのも私は辛い。本当に何があるのかわからない領域だ。だからここで君達を止める」
「勝手に探すし、一度は手の届く距離までいたんだよ」
「そしてその手はどうなった?」

 届かなかったのだろう? 言外に秋奈はそういった。或いは振り払われたのだろう、と。
 確かにそうだ。春彦の声も手もあの時明彦には届かなかった。
 しかし春彦は諦めが悪かった。確かに突き放された衝撃は大きく春彦を苛んだ。けれどもどうしてと嘆くのは早いと思った。まだ一度だけしか拒絶されていないのだ。一度位では春彦の歩みを止める理由にはならない。

「届かなかったけど、それがなんすか。まだ一回だ。綾小路さんにはわりいけど、俺は諦めねえぞ」

 その単純さが、春彦の強さだった。愚かなまでに真っ直ぐで、愚直故に強固な意思だ。愚か故の、破滅と紙一重だからこその強さだ。
 しかしその愚かさを、この場にいる誰もが持てないでいる。ただ、春彦だけが持っていた。それに間違いはないと、いっそ堂々とさえしていた。本人にその自覚はないのだが。
 秋奈が静かに春彦を見る。静かな若葉色が春彦を射抜く。それでも構わず春彦は秋奈を見返した。
 折れたのは秋奈だった。吐息にも近い苦笑を漏らして携帯端末を持ち上げる。

「合わせられはしないが、様子を伝えることはしてやろう。それ以上の深入りは認可できん。君達より先を生きる大人としてもな」

 その言葉にそれでいい! と春彦が大声を上げる、ハルうるさいよ、と嗜める夕雪の声も、来栖さんだってと揚げ足を取る真の声も喜色が滲んでいる。
 静かにしないか、と叱責しながら秋奈は芳の番号を押す。数度の呼び出し音の後に出た声は何処かくたびれている。話を聞きながらも自分の要件を伝えた秋奈は、しかし無言のままその顔を歪めていく。そして渋面を隠しもせず携帯端末を春彦へ差し出した。

「朝桐君、君に用があるそうだ」

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆

 慈淵は走っていた足を思わず止めた。ここ最近ですっかり馴染んだ白い髪がぼんやりと視界に浮き出てきたからだ。しかしそれなら慈淵は迷わず走り寄って声をかけただろう。
 慈淵が足を止めたのは、その白い頭の足元を見たからだ。うう、と小さく呻くそれはひどく奇怪な形になっていたが元は人間だったのだろう。慈淵の靴の先を汚す赤が、周りに飛び散った臓物が、少し離れたところに転がっている爪の禿げた指がそれを伝える。
 そして、明彦の手にはナイフが冷たく輝いていた。
 
「藤堂、それ仕事でやったのか?」

 慈淵が明彦に詰問する。いつものふざけた口調は出なかった。
 慈淵とて、異常者である以前にプロなのだ。対象は確実に殺すが、仕事以外の殺人は余程都合が悪くない限り殺さないと自分にルールを設けて動いている。それは慈淵を慈淵たらしめるための楔であり、それを曲げたらもう後は畜生に落ちるだけだと恐れながら人を殺めている。
 だが、今目の前にいる自分の教え子に当たる少年は何をしている? 今にも息絶えそうな、恐らく仕事の対象ですらない人間をここまで嬲ったのだろうか?
 くらりと目眩がした。ほんの少し前まで死んだばかりの人間を見て嘔吐していたはずなのに。
 振り返らない、そして何も言わない明彦に痺れを切らして慈淵が明彦の肩を掴んで振り向かせて、息を呑む。何も感じていない目を、死に損ないの肉の塊に向けていた。
 かふ、と塊を吐き出すような音がして目の前の肉が痙攣し、動かなくなる。それを見つめ続けていた明彦はひどく緩慢な動きで自分の肩を掴んでいた慈淵の手を外して踵を返す。

「ッ、清水が一回連絡入れろつってたぞ!」

 硬直の解けた慈淵がそれだけをなんとか叫ぶ。明彦は答えなかった。
 

 慈淵からの電話を切って、芳は力なくソファへ座り込んだ。ぎし、とソファから悲鳴があがる。それがなんとなく自分の心境を表しているようでため息をついた。
 取ってつけたように慈淵が告げた言葉は明彦の持っていたナイフに血がついていないと言う事実だった。それを信じるのならば浮浪者を明彦が殺した、と言う確証はない。
 しかし、死にかけた人間を放置するのは『普通』の人間のすることか? その上得物を構えていたとなると、とそこまで考えて芳は四肢を弛緩させる。あれだけわかりやすかった子供が今は全くわからない。理解していると自惚れているつもりはなかったがそれでも彼を知らない人間よりは知っていたつもりだった。その根拠のない自信が呆気なく瓦解する。
 今、明彦はどこを見ているのだろう? 真っ赤な目に何を写して、何を思っているのだろう?
 思い出すのは濁った赤と、すとんと何かが抜け落ちたような顔。青さすら浮き出るほどの無機質な白。
 思考の海に沈みかけていた芳を呼び戻すかのように端末からコールが入る。画面を見ればそれは今しがた考えていた男の叔母の名前で、無視するわけにもいかず無造作に応答アイコンを押した。

「……はい」
『私だが』

 知っとります、と力なく言う。恨み言でも言うつもりなのだろうかと止まりかけた思考のまま端末の向こうの秋奈に要件はなんだと促せば、思ったよりも気まずそうな声が聞こえてきて背もたれに深く預けていた頭を緩く持ち上げた。
 
『その、だな……今明彦の友人たちが来ているのだが』
「……あー、あのちまい子とぼんやりな子とメガネ君。面識はあらへんけど」
『いつもの詮索癖か、気持ち悪いな。まあ知っているなら話が早い。どうやら彼ら、というか朝桐君。お前で言う小さな子が明彦を見かけたらしい』

 つ、と背中に嫌な汗が伝うのを感じた。それは間違いなく悪い知らせなんだろう、と思う反面芳は何か期待のようなものを抱いた。
 何に対してかはわからない。ただ、なんとなく宛のない予感のようなもので。それが、悪寒を押しのけてじわじわと広がっていく。

『いや、見かけたというのも語弊があるな。どうやらお前の仕事をこなしている最中の明彦を追いかけてとっ捕まえたらしい』
「……はい?」
『信じられんか。まあ信用の出来る子だ、安心していい。その時明彦にナイフを突きつけられ帰れ、と脅されたんだそうだ』
「……あのアホなにしとんじゃボケカス」
『全くもって同感だ、不本意だがな。ああ、彼はこうも言っていた』

 秋奈が息を吸うのが聞こえる。聞き逃してなるものかと芳は上体を持ち上げた。

『”苦しそうだった”と。何かを押さえ込んでいるような、それでいて無理やりそんなものはないと否定するような……ともかく、そんな顔を一瞬だけしていたそうだ。それを見て彼らもただ事ではないと私の家へ押しかけてきてな……まあ、あれだ。必要なら追加金を払ってもいいので明彦の様子を定期的に教えてはくれないだろうか? 彼らも安心すれば、無闇にお前たちの領域に入り込むことはないだろうから』

 その言葉に、芳は黙り込む。清水? と問いかける秋奈の声が遠く聞こえる。
 心中、芳は穏やかではなく思考もまた目まぐるしく駆け巡っていた。のろりと、口を開く。

「綾小路さん、明彦が思い切り喧嘩した時、記憶飛ばして帰ってきたことありません?」
『突然だな。それが私の先ほどの依頼とどう繋がる』
「はよ答え……いや、ええわ。電話、アサギリ君に変わってもらえますやろか」
『……お前まさか巻き込む気じゃ』
「ちょっとだけね。まあ、悪いようにはしませんて」

 どこか楽しそうにすら聞こえる芳の声に秋奈が怒りを顕にした。

『貴様いい加減にしろよ、明彦だけに飽き足らず彼らまで手駒にするつもりか……!』
「ええからはよ変われ言うとんじゃババア。お前の甥どないなってもええんか」

 突然脅しを含んだ言葉を吐く芳に、秋奈が息を呑むのが聞こえた。一瞬の逡巡の後、受話器の離れた所から秋奈の声がして、すぐに若い男の声が返ってくる。

『……朝桐、っすけど』
「ああ、初めましてアサギリ君。清水芳言います。実はちょっと聞きたいことがあるんやけど、答えてもらえると嬉しいわぁ」

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆ 

 慈淵の指が苛立ちを隠しもせず画面を叩く。無機質な呼出音はワンコールだけ響いた。電話の向こうの相手よりも早く口を開く。

「庭木、藤堂いたか!?」
『いやいねえ! マジでどこいったあのクソガキ!!』

 端末越しに叫ぶ庭木の声を聞きながら舌打ちし、慈淵は路地裏を駆け回っていた。あの死体をそのままにしては置けず、芳に連絡を取った後業者に死体処理の以来や人払いをしていて完全に明彦を見失ったのだ。あのまま放って置いたのは何処か真面目なきらいがある明彦だから、返事をしなかっただけで芳に連絡を入れただろうと勝手に思い込んでいた。しかし再度芳に連絡を入れた所明彦から何も連絡は来ていないと聞いてざっと血の気が引いた。
 今の状況を、明彦は本当に理解しているのだろうかと不安になる。なぜなら自分や庭木、芳もそうだがイーノックに完全に顔を見られている。正直いつ襲われてもおかしくないのだ。その上明彦はイーノックの得物になりかけた、それも二度も。
 ふらふらと出歩いていい状況じゃなく、まして命を狙われ蹂躙される恐怖を明彦はわかっているはずなのに。
 苛立ちと、芳からの依頼対象である明彦の損失を考えてぞっとする。慈淵は一度芳に逆らったことがある。その際酷い目にあいそれ以降あのおっかない上客には逆らわないようにしているのだ。何があったかは割愛するが。
 ともかく、こそりと仕込んでいた盗聴器はバレたのか発信信号すら拾えず裏側を庭木と慈淵、表側を水澄と二手に分かれて虱潰しに駆けずり回っているのだ。水澄単独では上手く探せないだろうと庭木が西郷に頼み込み西郷の小間使いを二人ばかり借りてきた、とは言っていたがそれでも二人だけ。大人数で派手に動くのは、今は避けたかった。
 と、繋いでいる端末から呼び出し音が聞こえた。庭木の別の端末か、と思いながら廃ビルを覗き込んだ慈淵に、庭木の悲鳴に似た声が飛び込んできた。

『慈淵まずい、うちのパシリ一人殺られた!』
「ッはぁ!? 水澄は!? アイツどうした!?」
『水澄は大丈夫らしいけど、今電話かけてきてる奴が死にかけてる。アリングハムだってよ』
「マジかよ……わかった、とりま水澄は俺が回収しにいくから庭木は先動いてろ!」
『了解! 一応そっちのスマホにあいつらの所在と最寄りの俺の玩具置き場送っとくから使え!』
「ありがとよ!」

 それを最後に通話の終了を伝える音をを聞きながら慈淵はクソガキめ、と悪態をつく。庭木から連絡を受けたのだろう、西郷から届いたメールを確認して細い路地を駆け抜けた。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆

 眼前で息絶えた庭木の使いを無感動に眺めて、水澄は視線を前方へ流した。返り血を浴び、白髪が赤く汚れても気にせず、息一つ荒げない男を、ただ眺める。
 イーノックは水澄を見て舌打ちをした。
 
「なァんだ、俺を探している白髪がいるって聞いて迎えに来たのに人違いじゃねえか。Fuckin'Japめ」
「私も無駄足でした。探しているのとは違う……白い髪の男とは」

 抑揚のない声が気に食わなかったのか。足元に転がる死体を踏み潰す。もう反応のない肉の塊を踏みつけても楽しくないと言わんばかりに不服そうに鼻を鳴らしながらイーノックは水澄を見た。

「で、お嬢ちゃん。俺とアンタ以外の白髪の男、知らねえか?」
「他に女性でもいらっしゃるのでしょうか? 私のことを指すのであれば……染色体の在り方的に言えば私は男になるのですが」
「Sorry,余りにも分かり辛れぇ面してるんでつい間違えちまった。まあ、教えてもらえねえなら用済みだ。それに今から死ぬなら男も女も関係ねえよなァ?」

 かくり、と首を横に傾けた水澄にイーノックは一気に距離を詰めてナイフを突き出した。肉を貫く感触がして、イーノックは目を見開く。

「はぁ!?」
「……どうされましたか?」

 かくり、と反対側へ首を傾ける水澄に動揺を隠せずイーノックはナイフから素早く手を離して距離を取った。ぼたぼたと、水澄の左手から赤が滴り落ちて足元の赤と混ざり合う。
 イーノックのナイフは、水澄の掌を貫いた。ナイフの切っ先が手の甲から突き出しているのを間違いなく見た。しかし水澄はなんのためらいもなくナイフの柄を掴んだのだ。その後一度押し込んだにも関わらず微動だにしないナイフに動揺した。そして、耳に届いたぎしりというナイフが軋んだ音に嫌な予感がして咄嗟に距離を取る。
 水澄は特に痛がりもせず無造作にナイフを引き抜き捨てた。血が新たに溢れ出す。それも気にせずにイーノックへ一歩足を進めた。
 人形以上に無機質な顔は、しかし両目に確かな怒りを湛えて、凍えそうな程冷たい光を孕む。

「……私が持ち帰ろうとした材料、ぐちゃぐちゃにしてくれたのは貴方でしょうか?」
「こいつらのことか? あー……そうだよ、俺の玩具だからな」
「玩具、ですか。ふむ、貴方が居ると私の取り分が減ってしまう、その認識で今までいましたが間違いないようです」
「いやいやァ、多少は残ってるだろ? 血とか肉片くらいはよ」
「酸化と腐敗の進んだ不良品に、興味はありません」

 言うが早いか、水澄の穴の空いた掌がイーノックを掴もうと伸ばされる。寸でそれを避けイーノックは予備のナイフを取り出した。じろり、と水澄の目がイーノックを捉える。

「貴方の為に遊んであげます。ですから死んでください、私の為に」
 静かな声に、イーノックの喉が引き攣るように笑みを零した。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆

『なあ清水、どうすんだよこれ』

 庭木の怒気を孕ませた声に、芳は何も答えず手元の資料を見ていた。徐々に苛立ちが膨らむ声音を適当になだめながら文字に視線を滑らせる。

『ホント大損害だよ、アンタの持ってきたクソガキのせいでさ』
「そらすまんな。まあ二人死んだくらいで騒ぎなや、金なら払ろたる」
『そういう事を言ってんじゃねえんだよ、オイ。聞いてんの?』
「やかましいわ、ちと黙っとけ」

 絶対零度と言うに相応しい声が庭木の身を震わせる。渋々閉口するが、芳はそれに反応せず次々に資料を見ては取り替え、それを繰り返す。やがて全ての資料を見終えたのかぱさりと資料を机の上に投げ捨てた。それが聞こえたのか庭木が再び声を発する。

『なあ、どう収拾つけるつもり……』
「アリングハム、狩ろか」

 庭木は一瞬、何を言われたのかわからなかった。今電話越しにこの男は何を言った?

「聞こえんかったか? アリングハム狩る言うたんや」
『清水さんよ、学のない俺でもわかるんだけどサ。狩るって確か、格下相手に使う言葉だったと思うんだけど?』
「せやからそう言うたんや」
『とうとう気が狂ったのか、かっわいそ。一人でやれよ』

 庭木は苦々しげに言い捨てる。通話を切ってしまおうと耳から端末を話しかけた時芳が何かを呟いた。舌打ちをしてもう一度耳に当てなんて? と問いかける。

「二千」
『は?』

 間の抜けた声が庭木の喉から飛び出した

「追加で二千や。でかい仕事や、これくらいは出さななあ。うん? 蹴るか? 別に蹴ってもええけど、最初に言うたよな。途中抜けしたら殺すて。忘れてしもうた?」

 庭木はぞわりと肌が粟立ったのを自覚した。冷たい汗が額を滑り顎へ伝う。同時に理解した。この男は本気であの国際犯罪者を狩るつもりだと、理解してしまった。そして、何が何でも己を巻き込むと。
 慈淵や自分程裏側に精通してはいないはずの男の言葉から滲み出るこの悪意はなんだ。蝕む毒のような、この嫌な感じは、なんだ。
 黙り込んだ庭木など構いもせずに芳は淡々と必要事項を並べ立てる。

「お前の玩具置き場ん近くにイーノック引きずり出して欲しいんと、あと手榴弾やな。派手に音立てて欲しいねん、爆発音。ああ、実際爆発させてもかまへんわ。ケツは拭いたる」
『……待て、待て待て待てちょっとタンマ。マジでお前何する気?』
「見てもらわんと。言葉ではよう説明できへんわ」
『じゃあこっちも了解できねえ。んなあやふやな言葉で何を信じろって』
「俺の出した金額以外になんかあるん? それとも言葉なんて薄っぺらいモン信じてらっしゃるんやろか? ははぁ、庭木。お前の生きとる場所てそない生温い世界やったか?」

 酷薄な声が、引け腰の庭木に絡みついて離れない。ぎり、と奥歯を噛んだ庭木に薄い芳の笑い声が届く。

「最悪死ぬだけや。たったそれだけ。苦しむ間もあらへんわ」
『そこまでやる価値がねえつってんの』
「お前のポンコツぶり、西郷さんと、あぁそうそう、御両親に教えたらなあかへんかな?」

 ぞわ、と悪寒が走る。なんでこいつが自分のことを知っているのか。怖くて聞けない、いやだ。あそこに戻るのだけは。この仕事に、庭木にとっての価値はない。価値はなくともやらなければならない理由を植えつけられた。

『……他に、何すりゃいい?』
「肉壁。命は自分で責任とりや。慈淵と水澄にもそう伝え。詳細は追って連絡するわ」

 それだけ告げると芳は通話を切る。無音になった端末を、庭木は見えない眼球を向けるしかできなかった。
 

 さてと、と端末を机の上に滑らせた芳は待たせていた客人たちに振り返り、薄気味悪い笑みを浮かべた。

「会堂さんに羽野さん、御足労感謝しますわ」
「えらい物騒なハナシしてたじゃねえか」

 そう言ったのは芳が会堂かいどうさん、と呼んだ方だった。可愛らしいツインテールが揺れているが、芳はこの小さな少女が四十を過ぎた男性であることを知っている。しかしこのなりでも腕はいい。使えれば外見にこだわらない芳は笑みを貼り付けたまま淡々と続ける。

「まあ気にせんでください。別におってもおらんでも変わらん人種や、それこそお宅らに関係のない話やし」
「所で、私達に頼みたいこととは彼の護衛、それだけでよろしいのでしょうか?」

 質問してきたのは羽野はのさん、基山彦やまひこである。悠理の言うヤマさん、とは彼のことだと記憶している。芳は二つ返事でそうですそうです! と大げさに頷いた。

「貴方がすれば良いのでは?」
「そうだぜ、アンタいつも前には出ないんだ。だったら手持ち無沙汰になんだろ?」

 もっともな意見にそれはそうなんですけど、と笑みを絶やさない。

「いやあ、今回ボクも前に出る用事がありまして、その時彼の身の回りが手薄になりますんよ。探偵の御二方に護衛なんてまあお門違いなお仕事お願いしてしまうんも心苦しいですけど。まあ最悪彼の出番はあらへんとは思うけども。もしあればお願いしたいんやわ。な? 朝桐君?」

 にんまりと気持ちの悪い笑みを向けられた春彦は、固唾を呑んで頷いた。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆ 

 イーノックの一閃を、水澄の平手が打ち払う。
 その一撃が骨の芯まで震わせるような衝撃をイーノックの腕に伝え、思わずナイフを取り落としそうになる。薄く切れた掌には気にもとめず水澄はもう一打、と言わんばかりに反対側の手を繰り出した。それを躱してイーノックは再び距離を取る。
 先程一撃くらったあばらが痛みを訴える。儚さを纏う容姿とは裏腹に水澄の筋力は並大抵のものではなかった。軍事用ナイフが二本折られたのがその証拠で、もう喰らいたくはないとイーノックは回避の姿勢に入っている。
 厄介なのに喧嘩売ったな、と思う反面ここまで読みにくい相手も珍しいとにたりと口の端を釣り上げる。
 結局の所、イーノックは楽しかった。甚振り犯し殺すのも、こうやって命のやり取りをするのも。最終的にはみんな殺してしまうから。相手が死ぬまでの前戯でしかない。

 一方、水澄はイーノックとは逆に苛立っていた。これだけ戯れてやっているのに相手はまだ死なない。ああ、早く帰って作品作りの続きがしたいのに。目の前の男が死んでくれないせいで。
 その焦りが水澄の拳を急かした。大ぶりなそれがイーノックに当たる訳もなく、それを隙だと水澄の右腕を切りつける。
 浅い、表面を切りつけるだけの惰弱な一閃だった。しかし水澄はその赤い線を見て目を見開き口をはくはくとさせる。
 自分の芸術家としての価値が、存在意義が、水澄の生存価値そのものが汚される。たった一筋、然れど水澄の精神を砕くには最悪の一閃に膝が笑う。身体が震える。

「ぁ……ぁぁっぁぁああああ……ッ!」

 か細い悲鳴がつくれない、つくれないと言葉を紡ぐ。弱々しいそれが距離を取ったイーノックの耳に届く。その場に膝を付き、この世の終わりだと言わんばかりに歪んだ顔へ引き抜いた拳銃の銃口を突きつける。
 ああ、呆気ない最後だったなと萎えた心で引き金を引こうとしてその手が弾かれる。
 がしゃん、と歪な音を立てて弾き飛ばされた銃を視線で追えば視界の端に金属の反射光が写って咄嗟にナイフで受け止めるが、そのまま突き飛ばされる。自分を飛び越えて着地した姿にしぼんだ心が躍り出して、口の端が釣り上がる。
 
「よぉ! この間は楽しかったなァ! 会いたかったぜクソ野郎!!」

 己を無言で睨みつける慈淵にイーノックは酷く嬉しそうに声を上げた。そのまま何の予備動作も無く持っていたナイフを投げつける。
 それを躱すや否や、慈淵は勢いよく走り出した。二階相当の高さから窓を超えて飛び降りる。
 イーノックはちらりと水澄に視線を送る。最早声も出さず蹲った男に興味はないと捨て置いて、慈淵を追いかけた。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆

 慈淵が逃げ込んだ先はコンテナの並ぶ人工海岸だった。と言ってもかなり昔に放棄されて、残っているコンテナの大半が錆び朽ちている。腐った木箱が墓場のように乱雑に並び、嘗て輸送船を迎えていた灯台は光を灯さず沈黙していた。
 慈淵は血を流しながらコンテナの影で銃弾を再装填していた。走る合間もお構いなしに放たれた弾丸は少なからず慈淵の肩や足を貫いていた。しかしそこで足を止めるわけにいかなかったのだ。
 水澄と合流する前に入った庭木からの指示。この場所にイーノックを誘導しろと芳から命令された。そうだった、と霞む頭で慈淵は思い出す。庭木と自分は芳と同等の立場などではなかった。

「あの野郎、殺してぇなぁ」

 ぽそりと、掻き消えそうな呟きが思わず口から出た。自分の命くらいはどうにかしろ、そんなものは死ねと同義ではないか。
 いつか暗がりに乗じて首を掻き切ってやると思っていた慈淵の耳に足音が届く。庭木か、と振り返ろうとした慈淵の後頭部に硬い感触が痛みとともに伝わった。

「よぉ、探したぜ野良犬」
「ま、じっすか、ッ!」

 銃とナイフをその場に落として両手を上げる。その瞬間背中を思い切り蹴られ頭をコンクリートの地面へとしたたかにぶつける。背中に足が乗せられたと思った瞬間、空気の抜けたような短い音がして慈淵の四肢が熱を持ち、激痛へと変えた。

「ッ!」
「へぇ、声出さねえの」
「く、さっても、プロ、だ、もんで……ガッ!」

 減らず口を叩く慈淵の手を勢いよく踏み潰す。ぼきぼきと嫌な音が響いて、骨の折れる感触が靴底から伝わった。足を上げればあらぬ方向へ曲がった五本の指が視界に入る。それでも歯を食いしばり悲鳴をあげない慈淵をつまらない顔で見下ろして、今度は頭を踏みつける。

「プロだかアマだか分かんねえけどよ、大した殺し合いもしたことねぇ国で多少人間殺しただけで粋がるなよ、クソガキ」
ッ、ぐぅ、ッ!」
「戦争、知ってっか? せーんーそーう。人間同士が延々と殺し合ってる場所さ。敵を見てりゃ味方の弾で死ぬ、味方の死体眺めてりゃ次の瞬間死体になってんのは自分ってトコ。わかるか?」

 まるで物分りの悪い子供に言い聞かせるように、或いは歌うようにイーノックが語る。その間にも手にした銃は気まぐれに空気の抜けた音を響かせながら慈淵の手の甲を、足裏を、膝裏を肩を二の腕を打ち抜いていく。その度慈淵は悲鳴を飲み込んで、頭を地面とめり込ませようとする足を退けようともがく。
 それにも飽きたのかおもむろイーノックが慈淵の頭を蹴り飛ばす。顎先を的確に蹴られて慈淵は意識を飛ばしたのかぐったりと動かなくなった。しかし上下する胸がまだ生きていることを伝えている。後で遊ぼうとイーノックは自分の斜め前のコンテナに発砲した。
 
ッア、ァッ!?」

 聞こえた悲鳴にイーノックが笑う。ゆっくりと、しかし大股で悲鳴の聞こえた場所へ向かえば転々と血の跡がイーノックに次の獲物の居場所を伝える。
 徐々に足早に、しかし気配を殺しながら足を進めたイーノックの視界に足を引きずる迷彩柄のパーカーが見えた。口元に笑みを浮かべたまま、わざと足音と大きくして歩けば振り向きこそはしなかったが気づいたようで必死に足を早めていく。イーノックが一瞬立ち止まる。なんだ、と振り返ったパーカーの男の、無事な方の足へ鉛玉を撃ち込めば悲鳴をあげてその場に倒れた。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆

 つま先が自分の腹にめり込んだのを感じて庭木は息を詰まらせる。そのまま仰向けに転がされて腹に圧がかかった。どうやら自分の腹の上に座られたのだと自覚する。と、普段ぼやけてパーカーの影と前髪で暗い視界がにわかに明るくなった気がした。同時にイーノックの嗤い声が耳を劈く。
 
「ははは! こりゃ傑作だ! きったねぇ顔してるなお前!」

 自分の恥部を遠慮なく侮辱されて庭木の顔が歪む。新しい玩具を見つけたと言わんばかりに庭木の前髪を掴み顔がよく見えるように、と上へと引いた。抵抗しようとした庭木の腕にナイフを突き立て、その柄に足を置きより深く縫いとめる。庭木の悲鳴を聞きながらイーノックは庭木の顔に触れた。

 顔を半分以上覆うざらりとしたケロイド。ピアスが引っかかったと思うには不自然に綺麗な切れ目の入った両耳。濁った目と、本来丸みを帯びているはずの凹んだ瞼。恐らく眼球が存在しない空洞になっているのだろう。よく見れば顔の傷ややけどは首にまで続いており、その先は包帯で隠されている。予備のナイフを取り出してイーノックが庭木の喉へそっと切っ先を突き立てれば悲鳴がやんで、息を呑むのが伝わった。そのまま刃を下にスライドさせて、やがて晒された喉と胸元に、縄の後と刃物で刻み付けられた切り傷に歓喜の声を上げた。

「お前のママやパパは、お前で遊ぶのが好きだったみたいだな? いい趣味だァ」
「や、やめろ、見んな!触んな、ッ!」
「やだね、そう言うリアクションされっとやめたくなくなる」

 ひひ、と不気味な笑い声を漏らしながらイーノックは庭木の鎖骨にあった古い切り傷にナイフを突き立てる。軽く、致命傷にもならないようなそれに庭木が絶叫した。

「いやだあああああああああああああああああ!! ッあ、やだ、いや、あああああ、あああ!!」
「あっはははは! ガキかよ! いやガキだったわ!! 嫌か、そうかそうか!」

 光を写さない庭木の目が、イーノック以外の何かを写す。半狂乱になりながらいやいやと首を振る庭木のぽっかり空いた眼窩、それを覆う瞼に親指を沿わせる。

「ひ、ッ」
「どうやってココ抉られた? 言ってみ?」
「い、いや、だ、いや、ぁ」
「あ、そう。じゃあ俺の好きにするわ」

 そう言ってぐ、と親指に力が込められる。癒着していた瞼がぶち、と破られる。恐怖の余り庭木がイーノックの手首を掴みそれを止めようとするが、イーノックは構わず開いた眼窩の淵を親指で撫でながら、空いていた手で庭木の首を掴む。意図した訳ではなかったが、イーノックが掴んだ位置には縄の他に、指圧で着いたような鬱血があり、青く色素が沈着した場所で。庭木が幼少の頃親に絞められ続けていた場所だった。庭木の目は、イーノックを写さない。ただかつて見えていた世界が、視界に焼き付くように刻み込まれた光景が脳内にリフレインを起こしてパニックになる。

「わ、あ、あああああああ、あッ!?」
「キヒ、ヒヒヒヒッ!! ヒ、ッ!」 

 イーノックの不気味な引きつり笑いがコンテナに反響して響く。ぐ、と首に力を入れられて庭木の悲鳴はくぐもったうめき声に変わり、瞼を突き破った親指は頬骨の裏側に爪を立てる。顔の裏側から与えられる痛覚と気道と脈を圧迫される苦しさで、過去に刻まれた恐怖と絶望で、庭木の声がどんどん細く窄まって行く。
 眼窩を抉った親指が、更に奥を犯そうとした瞬間、イーノックの鼻に掠めた匂いが彼の体を止めた。

「ッ、ア」

 呻くような声を、劈く爆発音に掻き消される。次いでイーノックが息を呑む音がした。自分の首を絞める力が弱くなり、触れている手が震えていて。しかし半狂乱になった庭木はそれを隙だと認識できず我武者羅に刺されていない手を振り回して、二の腕に激痛と腹部に熱を感じた。やがてそれは広がるような痛みに変わり服を重たく濡らしていく。イーノックが庭木の腕に刺さっていたナイフを引き抜き無造作に庭木の腹へと突き立て、足早にその場を立ち去った。激痛に喘ぐ庭木はやがて凍えるような悪寒に侵される。温度が消えるとぼんやり思いながら、庭木は遠くで聞こえる爆発音と近づいてくる足音を最後に意識を手放した。


 足を進めるイーノックの息が荒くなっていく。何かを拒む様に片手で覆った顔は恐怖に歪み、ぶつぶつと口の中で何かを呟き続ける。
 何故だ。何故だ。イーノックの口元は確かにそう動いていた。見開かれた眼球はぎょろぎょろと音源を探るように忙しなく動き回る。その間にも爆発音はあちらからこちらから、イーノックを責め立てるように響き渡す。かつて、イーノックがいた地獄。今の状況はあの地獄からかけ離れているはずなのに音が、煙が、匂いが、光が滅茶苦茶に混ざってイーノックの脳を掻き乱す。回路のいかれた頭が、鼻腔に届く火薬の焦げ臭さを認識して勝手に従軍時あのときの記憶を再現する。
 かちゃ、と自分の背後から音がした。条件反射で飛び退いた。間髪入れずイーノックがいた場所に鉛玉が撃ち込まれる。サイレンサーを介さない純粋な銃声を、鬨の声だと言わんばかりに咆哮させる。

「懐かしいやろ? 自分、こういう場所におったんやてな?」

 訛りの強い日本語がイーノックの耳に滑り込んできたと思ったらまた発砲音が聞こえてイーノックの肩を抉る。痛みは薬でさほどない。だが、銃声が、爆発音がイーノックの何かを焼き切っていく。
 やがて砂埃の中から硝煙を燻らせて出てきた男は、深い紫色の髪を揺らしていた。


 手負いの獣のような男を見ながら、芳は自分がイーノックを恐れていることがバレないように表情を作りながら銃口を真っ直ぐ向けていた。脳裏には悠里からのイーノック=アリングハムの情報と、あと彼のお節介とも言えるメモの内容が滑っている。
 イーノックは基本的には銃器の類を滅多に使うことはない。使ったとしても必ずサイレンサーをつけている。
 最初この情報を見たとき、芳はそらそうだろと鼻を鳴らした。犯罪者だし、自分のしたことが露呈すると追われるのだから、と。銃器を余り使わないだけで、遊ぶ時にはしっかり打ち込んでいるではないか、と。しかしそれはイーノックが起こしたであろう事件の情報を読みあさって小さな違和感を生み出した。別に、イーノックは自分が遊んだ後を、人体を破壊しきった死体を隠していないのだ。ならばなぜサイレンサーなど? と。それでも遊んでいるの途中で見つからない為だろう、と芳は思っていた。
 その考えがひっくり返ったのは悠理の小さな、雑にちぎられた紙片に書かれた単語だった。

 シェルショック。それを検索してみれば戦闘ストレス、あるいは砲弾ショックとも呼ばれる。

 恐らく悠理は芳の情報処理作業を手伝いながら推理していたのだろう。イーノックの弱点とも言える事象を。出された情報を元に、そこに己の思考を複雑に絡めて編み込んで、バラバラだった元軍人の猟奇殺人者を、戦闘素人が手玉にとるために必要な武器きっかけを。
 庭木に狩りだと言ったのは、多少なりともその気にさせるため半分、自分が逃げ腰にならないため半分だった。それに、狩りだと、報酬に加えて強そうな言葉でそう言えば中途半端にプライドのある二人は無茶苦茶な要求でも動くのだと、庭木に至っては恐怖で動くことを芳は知っている。そうして二人を駆り立てて、芳がここにたどり着くまでの時間稼ぎに使ったのだ。
 二人の位置は会堂と山彦に伝えてある。遠目から見てひどい有様だったが、運が良ければ助かるだろうと見て芳は単身イーノックの元へ乗り込んだ。
 正直、逃げてしまおうとも思った。ばっくれて暫く身を隠して、ほとぼりが醒めたらひょっこり出てこればいいのだと。それをさせなかったのは単に自分がこちら側へ引きずり込んでしまった白い少年の存在で。
 ああ、ヤキが回ったな。そう思いながら苦笑して、砂煙が開けた先に、戦争で心が壊れた男の姿を見据えた。
 

 芳が銃口をイーノックに向けたまま引き金を引いた。振れた射線をイーノックは難なく躱すが想定範囲内だ。そもそも、戦闘素人が銃を扱ったところで当たりはしないのだととっくに開き直っている。芳が狙ったのはイーノックの背後だった。それに着弾した瞬間、イーノックの背後が爆発する。先行していた庭木が仕込んだ火薬に引火し爆ぜたのだ。とにかく、銃弾をイーノックに当てる必要はない。当たれば御の字、当たらなくとも銃声が彼を追い詰める。

 案の定イーノックは身体ごと爆発した背後に視線を向けた。その表情を芳がいる側から読み取れないし読み取る必要もない。続けざま芳は手榴弾のピンを抜いて放り投げる。元野球男児の意地というべきか、手榴弾は真っ直ぐイーノックへ向かって飛んでいく。そのまま爆発してくれ、と思ったが寸の所でこちらを向いたイーノックが恐るべき反射速度で手榴弾を弾き飛ばす。離れたところで爆発したそれに構わず芳はあちこちへ手榴弾をばらまき、銃を発砲し続ける。硝煙と煙が視界を濁す。好都合だと芳は弾倉が空になった銃を投げ捨て新しい銃を構える。手早く弾倉を入れ替えるなど、それこそハリウッド映画の主人公じゃなしできるわけがないと最初から装填された銃を入手できるだけ持ってきたのだ。いくつかの銃弾がイーノックの腕や足を抉るが決定打にはならない。
 ジリ貧だ、苦々しげに現状を把握した芳の耳にイーノックの怒声が響く。

「図に乗るなクソガキがァ!!!」

 まずい、そう思ったときには遅かった。芳の眼前にはナイフを構えたイーノックが怒りを隠しもせず潜り込んでいた。ナイフの切っ先が容赦なく芳の心臓めがけて飛んでくる。咄嗟に手榴弾を入れていたリュックを盾に芳はその場から飛び退いた。中に入っていたものが、何かの拍子に安全ピンが抜けたのか、イーノックもその場を離脱した直後リュックもろとも手榴弾が爆発した。一度に多数の手榴弾が爆発したからか芳が投げていた爆発の比ではない。立ち込める煙にむせた芳の頭を血だらけの手が掴む。
 そのままコンテナへ頭部を叩きつけられて芳は一瞬意識を失いかけた。いや失ったのだが、イーノックがそのまま芳の頭をコンテナに擦り付ける。摩擦による激痛で無理やり意識を引き戻されたに過ぎない。芳のズボンのベルトに無造作に差し込まれていた拳銃を引き抜いて、芳の両足を撃つ。そのまま芳の腹部に三発連続で撃ち込み、大きく跳ねる芳の頭を押さえつけた。芳の口から吐き出された血がイーノックの掌を濡らす。

「お前で遊ぶ気もわかない、死ね。今すぐ死ね。殺してやるからさっさと死ね」

 早口でまくし立てながらイーノックは銃身を血が溢れる芳の口内へねじ込んだ。熱を持つ鉄身に舌を焼かれる。イーノックの指が引き金へ力を込められるのをかすれる視界で芳は見た。

(ウィリアム、ごめんなぁ)

 ある可能性を残したまま芳は自分の命を諦めた。次の瞬間には黒く塗りつぶされているだろう意識の合間に、未だ帰ってこない恋人へ謝罪する。何の謝罪なのか、芳にも分からない。けれどもどこかで安心している自分もいた。例え無惨な亡骸になろうとも、人間の手で死ねるのだと。
 しかしイーノックは芳の口から銃身を引き抜いた。焼けた舌の皮膚が僅かに持って行かれ、喉奥からせり上がってくる血と裂けた舌の血が混ざりながら芳の体外へ出て行く。それには目もくれず、イーノックは芳のこめかみに銃口を突きつけた。
 その行動に理解できないまま芳がイーノックの視線の先をみて、目を見開く。来た、と期待と不安で霞む頭が満ちていくのを感じた。
 ぼう、と夜闇に浮いた白がゆっくりと歩みを進める。普段邪魔だと結い上げられている髪は結われておらず、潮風に煽られて弄ばれる。その姿を見たイーノックは笑みを浮かべた。彼の垂らした唾液が芳の頬を伝う。芳の方を向いていた銃口が離れると同時に芳の身体を投げ捨てた。腐った木箱の成れの果てへ打ち捨てられる芳に見向きもしない。イーノックの興味は完全に芳から消えていた。
 イーノックの視線の先に、濁った目をした明彦が立っている。しかしまるで生気を感じなかった。
 

 イーノックが喜び勇んで明彦に歩み寄る。その左手には芳から奪った拳銃が握り込まれてたまま、まるで極上の馳走を目の前に突然並べられた気分でイーノックの口の端から止めどなく唾液が垂れている。
 ど、とイーノックの腰に衝撃が走る。芳がイーノックの腰のナイフを掠め取り腰へ突き立てたのだ。よそ見すんなやと弱々しく、しかし睨み上げる芳をイーノックはつまらなさそうに見下ろす。ナイフはかなり深く己の身体に埋め込まれた。しかし痛みはない。まだ効いている薬と興奮で痛みが脳にまで届かないイーノックは芳を突き飛ばして残った銃弾を芳に撃ち込む。芳の左肩から血が噴き出し、そのままコンクリートの上を滑ると、芳はぐったりと動かなくなった。

「お前にもう興味ねぇんだ、死んどけ。さてとWhiteboy一緒に殺り合おうじゃ……?」

 意気揚々と口を動かしていたイーノックは訝しげに明彦を見た。いつの間にか明彦がかなり近づいていた。ともすれば明彦の額がイーノックの胸についてしまいそうな、お互いののパーソナルスペースを深く侵害した位置にまで。ふらりと揺れていた身体がぴたりと止まる。すい、と挙げられた右手が今しがた芳に刺されてできた腰の傷に触れ、明彦の白い指を赤く染める。血が糸を引きながら傷から手が離れた。
 なんだ、困惑と共にイーノックに理性が戻った瞬間。がっ、と明彦の左手がイーノックの腹を掴んだ。大きく目を見開いたイーノックを明彦が見上げる。口が、大きく歪む。先程まで濁っていた目が鮮やかに、いっそ毒々しさすら感じる程の赤がイーノックを見た。
 明彦はイーノックの腹に爪を立てながら笑っていた。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆ 

 時間は少し遡る。明彦は一人、イーノックの痕跡を追っていた。自分の取り巻いている状況は把握していて、それでも単独行動を選んだのは運良く小桃が見つかれば二人で逃げてしまうつもりだったからだ。それが甘い考えであることも悪い頭なりに理解はしていて、それでも縋らずにはいられなかった。
 しかし明彦の前に出てくるのは小桃の無事な姿ではなく、浮浪者、あるいは今まで普通に生きていたはずの人間の成れの果てばかりで。人間になど到底戻れそうにもない姿で、それでも僅かに息がある。生きたい、痛い、助けてくれ、殺してくれ。そんな彼らの最後の声を明彦は一人聴き続けた。手に、真っ白で汚れていないナイフを握りながら、何もせず傍観し続けた。
 
 その度明彦の脳内にあるイメージが過っていく。かつて己が見た、冒涜的な人外の姿。淫らで下劣な触手の顔面。対面もせずに人の生を侮辱する忌々しい化け物の様な、神のような……。

 名状し難いそれらが、目の前の死体を作り上げるという妄想。虚妄。幻惑。その度に明彦の神経は小さな音を立てながらちぎれていく。悲鳴をあげていた心は沈黙し、蓋をし押さえつけていた感情が少しずつ零れて溢れていく。それを抱えながら、明彦はイーノックの遊んだ跡を見続けた。救いを、嘆きを、憎悪を、それらを孕んだ最後の声を聴きながら。
 そして今。目の前で芳がイーノックの手で命を終えようとしている。生気の無い目が、だらしなく開け放しの口から溢れる赤が、抉れた肉がこれまで見てきた死体達と重なっていく。中途半端な人の形を保ったまま死に絶える芳の姿が、まだ生きている彼の現実を塗り潰して目の前に現れる。最後の枷が壊れた。ダムが決壊したかの様に、狂気が明彦の頭を一瞬で埋め尽くした。一度目の邂逅で、イーノックから逃げるためにがむしゃらに振り回した暴力で僅かに首をもたげた残虐性が、理性が抵抗する間もなく明彦を染め上げる。

 笑う明彦に、イーノックが咄嗟に銃口を向ける。引き金を引くも先程芳に撃ち込んだのが最後だったのか撃鉄げきてつが虚しく鳴くだけだ。その銃身を明彦は新しい玩具だと言わんばかりに引っ掴む。まだ熱い銃身に掌が焼かれるのにも構わず明彦は強引に銃を引っ張った。ごきん、と嫌な音を響かせてイーノックの指が反対側へ折れ曲がる。まだ痛みはない。だが嫌な感触にぶわ、と冷や汗が湧き出した。明彦の掌から肉の焦げる匂いがイーノックの脳を揺らせて、普段は薬で眠らせている記憶を揺り起こす。思わず明彦の腹を蹴り飛ばせば抵抗なく明彦が吹き飛んだ。服越しに掴んできたにも関わらず血が滲むほど掴まれた腹を見てイーノックは明彦との間にできた距離に安堵して、しかし一瞬で戦慄に変わる。
 そう、安堵してしまったのだ。イーノックは。まだ二十歳にもならないような子供を蹴り飛ばして、開いた距離に安堵したのだ。その事実がイーノックの嫌な予感を増長させる。やがてそれは眼前に、人の形をして出てきた。
 芳が起こした爆発で恐らく破損したのであろう、先が鋭利になった鉄パイプをガラガラと引きずり鳴らしながら明彦が歩いて近寄ってくる。

「ぁは」

 小さく聞こえた明彦の声にぞわと肌が粟立った。最早目の前の子供はイーノックの獲物ではなくなった。今この瞬間、藤堂明彦はイーノック=アリングハムを狙う敵になったのだ。
 しかし、殺人鬼は子供の敵にすらなれなかった。

「あはッ! はははッ! なあイーノック、おれとあそぼう! しぬまであそぼう!!」

 舌足らずささえ感じる幼い喋り方で、明彦は酷く嬉しそうに声を上げたのだ。
 

 どうしてこんなにたのしいことを、こわがっていたんだろう。

 ぼうりょくは、たのしい。かみさまのようなばけものだって、おれをつぶそうとしたとき、たのしそうだったから。きっとこれは『たのしい』なんだ。

 てをにぎってそれをあいてにぶつけて、にくをうつおとがきこえて。ほねがおれるおとがして。あいてのこえがひびいてきて。なまあたたかくて、なまぐさくて、まるでだきしめられているような。ぬちゃりといとをひくあかいいろがとてもきれいだ。

 ぜんぶ、ぜんぶ、たのしい。たのしい! ぜんぶたのしい!!

 じゃあきったらどうなるんだろう? さしたら? えぐったら? ひきちぎったらどうなるんだろう?

 きっときっと、『たのしい』なんだ。だってイーノックをなぐったとき、おれはまちがいなくたのしかった。

 こわくてにげたかったはずなのに、それでもにげずになぐりかえしたおれは。俺 は。


 殴って切ってへし折ろう。
 刺してちぎってすり潰そう。
 掴んで、砕いて、八つ裂きにしよう。
 ああ、きっと、それはとても『楽しい』こと なん  だか     ら。
 


 目で辛うじて捉えられる速度で振り下ろされた鉄パイプを紙一重で避ける。しゃがんだ姿勢からイーノックがナイフを突き出して腕に深く突き刺さる。しかし構わず明彦は思い切りイーノックの胸を蹴り飛ばした。ばきりと靴底から伝わった感触は、奇しくもイーノックが先刻慈淵で感じた感触と同じものである。明彦がそれを知ることはない。
 無邪気に笑い声を上げながら明彦はくの字に身体を曲げたイーノックを見下ろした。殴ろうと思えばすぐに殴れるのに、明彦はそうしない。それどころか、イーノックが立つのを待つことすらしていた。まだ? と邪気のない笑みを浮かべて首を傾げる。
 一方イーノックはそれどころではなかった。血を流しすぎたのと、薬が切れかけて折れた指が、刺された箇所が、砕けただろう肋骨が痛み出す。内臓に骨が刺さったのか咳き込んで吐き出した痰の中に赤色を見つけた。末端から力が入らなくなってきていた。手が痙攣して、焦点がブレる。
 すい、と白が視界に滑り込んできてイーノックは息を詰まらせる。小さくしゃがみこんだ明彦がイーノックを不思議そうに見上げながら口を開いた。

「おしまい?」
「ッ」
「だめ、まだいきてる」

 幼い笑顔をイーノックに投げ掛け明彦がゆらりと立ち上がる。後退りする一瞬の間も与えられず、代わりに鉄パイプがイーノックの頭を打つ。点滅した意識の外で明彦が仰向けに倒れた自分を跨いで立ったのを感じた。まず右肩。そして左腕。ぐちゅ、と貫いたのは鉄パイプの先が尖った所だろうか。次いで腹を殴られる。血が喉奥からせり上がってきたのを感じたと同時に足首を砕かれる。薬ではもう痛みを抑えられない。それなのに痛みの後感覚が消えていく。
 殴打される。刺突される。一蹴されて楽しそうな声がイーノックの耳朶を柔らかく叩く。

「まね。じょうずにできた? なぁ? どう?」

 褒めて、とまるで子供が強請るような甘い声にイーノックは瞠目した。
 明彦の声に、悪意がない。それはまるで子供が蝶の羽を毟るような、蟻を踏み潰すような、蝗の足を捥ぐような。悪意のない、純粋な好奇心。明彦の暴力は純粋過ぎた。生き物すら殺すような、綺麗すぎる真水のそれ。イーノックの持つ性的なものとは真逆の欲求。ただ、純粋に、己すら破壊する暴力が楽しいのだと毒々しい赤い目が、分り易すぎるほどに煌めいていた。
 そ、とイーノックの心臓の上に鋭利な鉄の先端が向けられる。大きく目を見開いたイーノックをうっとりと明彦が見つめる。

「うまくできるかなぁ? できたらさぁ」

 ちゃんとほめて。そう言って薄く笑った明彦は握った鉄パイプに体重をかけようとする。

「やめろアキ!!」

 イーノックの皮膚を鉄の楔が食い破る寸前、薄紫に染まった空に力強い声が響いた。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆ 

 血の気のない顔でぐったりとしている芳が山彦に運ばれていくのを、春彦は渋面を隠すことなく見送った。芳を見つけるまでにうずくまる髪の長い人間と、意識のない赤毛の男と眼球のない孔から血を流す男を既に車内に運んで、会堂が応急処置を施している。この場で自分だけが場違いだと感じながら、春彦は車から出て行く芳を思い出していた。
 春彦は過去、自分が見た明彦が喧嘩していた時の詳細を芳に話していた。明彦は最初こそ鬱陶しそうに相手をしているが、喧嘩も終盤に差し掛かった時が一番高揚していると。たまに、自分や夕雪を間違えて殴りかかることがあると。
 それを聞いた芳は微妙な顔をしていた。それがなぜ、自分がここにくることになったのかどうしても繋がらなくて車内で思わず芳に聞いたのだ。

『もし、あいつがな。落ちかけとったら引っ張ったって欲しいねん』

 一拍空いた間に、芳が困った気配がして春彦はその言葉を反芻する。きっと、芳と明彦の間に何か共通認識があるのだろう。根拠はないがそう思った。

『明彦をな、こっち側に連れてきてしもうたんは俺やねん。負担かけさせたんも俺。殴ってもええけど、今は待って。あとで殴られたるさかい』

 不思議だった。秋奈にあんな顔をさせた男が今、自分の目の前で憂いに揺蕩っている。

『もしかしたら明彦、壊れてしもうたかもしれへん。ただ、壊れた明彦が俺の手持ちのカードで一番火力が高いのも事実やねん』

 何も知らない春彦にぽつりぽつりと言い訳を重ねる。探偵らしい凸凹した二人組と話しいていた時の気味の悪さがない。

『全部利用せんと、皆殺しにされるからなぁ。道具のように扱う俺が許せへんのもわかるけど、今は待って』

 底が知れなくて冷徹だろう男が、春彦に懇願する。

『そんで我儘を聞いて欲しいねん。明彦が人殺す前に、止めたって』

 俺の声はきっと、届かへんから。そう言って笑った男に春彦は切実さと哀愁に似た何かを確かに感じたのだ。
 だから引き受けた。それだけではない、弟分の不始末にケリをつけるのは兄貴分の仕事である。可愛い弟分が悲鳴を上げているのなら引っ張り戻してやるのは兄貴分たる自分の役目なのだ。
 山彦の待っていてください、という言葉を無視して春彦は明彦の姿を探す。がん、と何かがぶつかる音がしてそちらへかけていって、思わず足を止めた。
 遠目から見ても、明彦が仰向けの男に棒のような何かを刺している。鉄パイプで喧嘩相手を殴るところを見たことはあったが、刺すなんて。何度も刺して殴っている明彦からは無邪気な笑い声を上げているのが春彦にも聞こえた。
 それが悲鳴に聞こえて、春彦の口が思わず動く。やめろ、もういいと呟いて。
 明彦の手にした鉄パイプが、男の心臓の上に宛てがわれて、力を込めるのを見た瞬間。春彦は腹の底から叫んだ。

「やめろアキ!!」
 

 聞こえた声にびたりと動きを止めた明彦の鉄パイプを引っ張り体勢を崩した子供を蹴り飛ばす。無抵抗に弾き飛ばされた明彦に一気に詰め寄り殺すつもりで鉄パイプを振り下ろす。
 しかし明彦も咄嗟に両腕を交差させて頭への直撃を防いだ。骨の砕ける嫌な感触と激痛を食いしばって耐え、真っ直ぐイーノックを見据える。その目に先程までの純粋な殺意はなく、しかし濁ってもいない。死んでたまるか、とただ必死な光だけがイーノックを射抜いている。
 もう一度イーノックが鉄パイプを振り上げようとするのを無事な方の腕を伸ばして掴む。思い切り引っ張ってイーノックがよろめいた所へ足払いを仕掛けた。二人してもんどりうって転がる。鉄パイプがコンクリートの上を滑ってどこかへ消えた。その乾いた音の合間にイーノックが苦痛の声を上げたのが明彦の耳に届く。視線を向ければ芳が刺したナイフに体重がかかってより深く奥へ入り込んだのだろう。
 悲鳴を上げる身体を無視する。無理やり立ち上がって走り出す。視線の先には同じようにふらりと立ち上がったイーノックと、その奥には倒壊していないコンテナが壁の様に聳え立っている。お互いの両手に得物はない。
 明彦はイーノックに突進した。イーノックを引っつかみ思い切りコンテナへ叩きつける。明彦の狙いが刺さったままのナイフだと感づいたイーノックも黙ってはいなかった。痛みを無視して明彦の首を両手で締め上げる。

 命と尊厳を賭した、最低な意地の張り合いだった。

 脳へ巡るはずだった血が途中で塞き止められて、キンと痛々しい耳鳴りが響く。空気を求めて空いた口からは飲み込めなかった唾液が垂れる。イーノックは立っているのも精一杯で、しかし気力で両足を踏みしめて堪える。折れた指が痛い、忌々しい、これがなければ既に絞め殺せていたのにと舌打ちする。同時に、こんなに痛いのは久々だな、ともどこか遠くそう思った。
 それでも、明彦の圧力が弱くなってきたのをイーノックは感じていた。このまま行けば、死ぬのはこの子供だ。自分は、助かると。
 しかし、重みが増した。どうして、と思う原因が春に吹き荒れる嵐のような声が二人の鼓膜を打ち鳴らす。 

「負けてんじゃねえぞアキ! 根性見せやがれッ!」

 春彦が明彦の背中を押していた。いつの間に、とイーノックが春彦を見る。そして声が耳障りだと、イーノックの意識が一瞬そちらへ向く。この子供が死んだら、次はお前だと。明確な殺意を向けられて一瞬怯んだ春彦は、しかし先程の明彦と同じ光を宿してイーノックを睨みつけ、再度声を上げ足に力を込めた。

「一緒に帰んぞ!! だから、負けんじゃねえッ明彦ォッ!!」

 ぶち殺すぞ、と春彦へ叫ぼうとしたイーノックは閉口した。弱まっていたはずの明彦の踏み込みが、春彦の分を差し引いてもまた強くなったのだ。は、と対峙していた白い子供に視線を戻すと白目を剥きかけていた明彦が焦点を自分に合わせて睨みつけている。
 明彦の鼻から血が垂れる。目尻から血が溢れる。眼球の血管が切れてきたのか、白目を赤く充血させている。それでも明彦はイーノックを睨み続けていた。
 ぞっとした。ここまで死にかけて、それでも生きようとした人間をイーノックは知らない。それが生きようとする人間の最後のあがきで、それがどこまでも力強いことをイーノックは知らなかった。その無知が、彼の想定した結末を変えた。

「ォ、あ」

 明彦の口から、声が零れる。締め付ける掌に振動として、耳から音としてイーノックを侵食する。そして。

「ぁああああああああああッ!!!」

 絞り出した咆哮と共にぐん、と明彦が一歩踏み込んだ。コンテナとイーノックの身体に挟まれたナイフが、柄すら超えて肉に沈み込む。イーノックの自前のナイフは刃渡りが長く、その先端がイーノックの腹を突き破り、切っ先を覗かせる。
 信じられない、という目でイーノックはその光景を見ていた。明彦の首を締めていた手が緩む。明彦がたたらを踏んで、それでもコンクリートを踏みしめて、イーノックに視線を向けている。ふらり、とイーノックの体が傾いた。その先に地面はなく、体が宙に放り出されて落ちる。
 何を求めたのか、空に手を伸ばしながら男は海に呑まれた。
 

 どぼん、と重たいものが海面に叩きつけられる音を聞いた瞬間、明彦の体から力が抜ける。倒れ込みそうになった身体を咄嗟に春彦が支えた。ふと、明彦の目が緩く晴彦の首へ向く。塞がっているが、赤い筋に覚えがあった。にわかに明彦が顔をしかめる。

「はる、さ……くび……ごめ……」
「ああ? 許すわけねーだろ、後で殴る」
「へ、へへっ、よう、しゃ、ねぇや……」
「当たり前だろ……帰るぞ」

 言葉とは裏腹に柔らかく、安心するその声音に明彦が小さく頷いて、そっと目を閉じる。その胸元が僅かに上下しているのを確認して春彦も腰を抜かして座り込む。今更イーノックに向けられた殺意に、明彦が死ぬんじゃないかと言う恐怖に怯えた自分に失笑する。
 
「……クソ散々だな、どいつもこいつも」

 会堂たちの慌ただしい足音を聞きながら、春彦は天を仰ぐ。最後の星が紺色と青色の狭間に溶けて消える。代わりに朝日が水平線の向こうから空を照らしていた。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆

 病室のリノリウム質の床の上で芳は正座していた。眼前にはベッドに足を組んで煙草を吹かしている顔面に包帯を巻いた庭木と、同じく煙草を吹かせながら利き腕にギブスを嵌めている慈淵。離れたベッドでは水澄が布団の団子と化している。
 
「おうかおちゃんや、俺暫く仕事できねえんだけど」
「そーだそーだ」
「いや、俺かて怪我してるねんけ……あと一本ちょうだい」

 そろりと手を差し出した芳に慈淵庭木が揃ってがはぁぁ? と奇声を発する。

「殺すぞ? 今ここで殺すぞオメー。はぁぁぁあああん?」
「せやから助け寄越したったやないか!! 生きとんやから問題あらへんわボケェ!! あと庭木お前仕事できるやろ!! 一番軽傷のくせに何を被害者ぶっとんじゃお前!!」
「トラウマヲーエグラレマシター、シンリテキショックデーウゴケマセンー」
「うるさいです」

 どこか煩わしそうな水澄の声に三人が沈黙する。
 四人と明彦が放り込まれたのは秋奈の知り合いの病院だった。余計な詮索はするな、と釘を打ってくれたのか体調以外のことを聞かれていない。助かるな、と芳が苦笑した直後先に意識が戻っていた庭木と慈淵に床に正座させられ現在に至る。
 よっこいせ、と椅子に座り直した芳を慈淵が視線で追いながら煙草とライターを投げ渡す。本来御法度なのだろうがその辺も含めて秋奈がなんとかしてくれたらしく好き勝手に吸っていた。煙草を咥えて火をつけた芳に、庭木が耐えられないと言わんばかりに口を開けた。

「アリングハムは」
「生死不明や。海落ちて死体もあがっとらんし死んだ言う話も聞かへん。けど連れてきてた坊主が見てた限りじゃ明彦にいいようにしばき倒された挙句、俺が刺してたナイフ腹に貫通したままドボンやと」
「うっわ、いたそ」
「普通なら生きてねえよな、それ。俺なら死ぬわ」

 ひぇ、と悲鳴を上げた庭木に感心したような慈淵を見てお前らほんまに、と芳が顔を引きつらせた。妙な感覚の違いはさて置き、と言うように芳が煙を吐き出す。

「まあ、ひとまずは依頼達成や、ご苦労さん。生きとったとして当面日本にはおられへんやろな。顔やあれや、情報あちこちぶちまけたさかい。満身創痍で逃げ回るんも楽やないやろ」
「ほえぇ、ぬかりのなさが怖い。所でかおっち、あの馬鹿は?」

 一際濃い煙を吐き出しながら庭木に馬鹿、と指名された子供に苦笑しながら芳がまだ寝とると言えば呑気なもんだなと慈淵が続いて煙を吐き出した。なんとなく二人の声音が柔らかい気がしたが、芳は気づかないふりをした。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆ 

 目を覚まさない甥の横顔を見ながら、秋奈は窓の外を眺めていた。長椅子には夕雪と真が寄り添って寝こけており、春彦は備え付けのテレビをぼんやりと眺めている。ニュースは先日の海岸での爆発事故のことが流れていた。それが事実とは異なることを、この場にいる四人は知っている。それでも沈黙していたのは、自分たちが騒ごうがこの件は表には消してでないように捏造されてもみ消されるのを理解しているからだ。

「朝桐君、今回のこと感謝している」

 唐突に秋奈が口を開いたと思ったらそんなことを言った。きょとんとしている春彦を苦笑して見ながら息を吐く。

「馬鹿な甥を連れ戻してくれたんだろう。昔から暴走するんだ、この子は」
「知ってる。一緒に喧嘩してたし」
「ははっ、面倒をかけたな」
「いいよ別に、好きでやってるんで」

 明彦の頭を乱雑に撫でながら返す春彦にそれ以上何も言わず、秋奈が立ち上がる。飲み物を買ってくる、と言って出て行った後春彦は明彦の顔を見る。
 純粋に暴力を楽しんでるなとは前々から見ていて感じていた。本人が気付いていなかったその衝動を自覚して呑まれる程の環境に身を起き続けたのはなぜだろう。そう呟いた春彦に真がそう言えば、と明彦が教員に暴力を振った経緯を教えてくれた。知って、納得した。探したかっただけなんだろう、この馬鹿は。暴力以外の人の関わり方を、人を好きになることを、その嬉しさを教えてくれた彼女のことを自分で見つけたかったのだろう。
 本当に馬鹿だ。人見知りで人間不信で、そのくせ一人でいるのを嫌がる面倒な弟分。一旦懐けば犬のようについてまわる。そんな馬鹿が、慕っている人間にナイフを突きつけて追い返して。そのくせあんなに苦しそうな顔をする。分かりやす過ぎるのだ。

「早く目ェ覚ませ。殴るつったろーが、ばぁか」

 春彦がぼやく。呼応したように明彦の瞼が震えて、薄く開く。とろりと赤色が溢れた。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆

 明彦は自室なった部屋を眺める。空っぽだったそこは今パソコンやゲームが置かれ徐々に明彦の私物が増えた。退院してから一週間後、明彦は芳の家にいた。
 今回の件で明彦の立場は庭木の部下にすっかり収まった。というのも表に戻った所で学校は自主退学として処理されてしまっている。
 それ以前に今回の件で(それが芳の下請けであれ)犯罪者に顔が割れてしまっていて学業復帰はおろか普通の生活さえ困難だ。例え慈淵達にその気がなかろうと明彦は悪目立ちしすぎている。だからと言ってこのまま裏稼業ができるか、と言われたらそうでもない。明彦の暴力性がいつどうなるか誰も、明彦自身もわからないからだ。そんな爆弾をどちらにも放って置けず、頭を抱えた芳に庭木があっけらかんと言ってのけた。

『あきっち、いらないなら俺にちょーだい』

 それは最初、庭木が西郷に言った言葉だった。預かり物だった明彦の身分を、今度は芳によこせと行ってきたのだ。
 庭木としてもこのやんちゃ坊主(ではすまない凶悪なクソガキ。こう評したのは西郷らしい)を野に放っておくのに気が引けたのだろう。明彦の身体能力にいの一番に目をつけて小間使いにしていただけあり、庭木は明彦を順調に情報屋として育てている。独断行動を言及したことを素直に謝られたことに絆されたのもあるのだろうが。明彦のこういう所だよなあと秋奈と芳と春彦が苦笑し合ったのは記憶に新しい。その際制約として明彦に拷問系統の仕事をさせないように頼んだところ庭木も願ってもない申し出だったらしく二つ返事で了承してきた。別に本人にその気の有無に関わらず加減しそこねて普通に殺しかねない、と芳も庭木も考えたためである。
 そして、明彦は好きに春彦たちや秋奈に会えることにもなった。慈淵らに金を握らせて彼らに害を与えないよう伝えたからだ。殺し屋に殺すなって中々な依頼だぞと慈淵は腹を抱えて笑っていた。水澄は不服そうだったが。
 その一連の流れをメンタルケアだと芳は言った。しかし誰がどう見たって単なる甘やかしで、そのつもりが芳本人にもあることを慈淵、庭木、水澄、春彦、秋奈、夕雪に真、そして悠理ら探偵事務所の面々には完全にバレている。
 知らぬは本人ばかりの話だ。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆ 

「明彦、今日俺早よ帰るで飯頼むわ」

 そう言いながら出ていこうとする芳を、玄関先で壁にもたれながら眺めていた明彦は無言で頷いた。仕事のない日は家事をしているかゲームをしているか、はたまた何か作っているか。それが明彦の流れになっている。春彦たちとの約束がない限りは勝手に外に出ないようになっていた。

「……行ってらっしゃい」
「はいはい、行ってきますわ」

 小声で呟いた明彦を苦笑しながら見て芳が出て行く。居間へ戻った明彦は携帯の画像を開いた。そこに写っているのは、小桃と自撮りした時の画像。
 会いたい気持ちが、探したい焦燥がなくなったわけではない。むしろ逸る気持ちは加速する。今回のような事が今後あったとしてもまた自分は馬鹿をやるのだろう。狂って知らない誰かを傷付けて、見知った周りも巻き込んで際限無く傷付ける。そうしてでも彼女を探したい。
 それでも、と明彦は思う。狂った自分で小桃に会いたくない。暴力を振るった後の両腕じゃなくて、綺麗なままの手で迎えに行きたい気持ちが今は強かった。例えそれが、エゴイズムで誰にも賛同等して貰えない気持ちだとしても。


 自分は、普通から少し外れてしまったけれど、それでも小桃は許してくれるだろうか?
 そんなことを考えながら明彦は煙草に火をつけた。