ツギ

 手が、まとわりついてくる。いくつもいくつも伸びて来て明彦の四肢に絡みつく。
 
「おまえのせいでしんだ」
「おまえがあのときいたから」
「おまえのせいだ」
「うらむぞ」
「ゆるさない」
「いたい」
「つらい」
「くるしい」
「どうしておれが」
「ゆるさない」
「——どうして?あきひこくん」

 眼球のない、暗い眼窩を晒した小桃が恐怖で動けない明彦の顔を覗き込む。そして——。


「あすか、ッ!?」

 弾かれたように明彦は上体を起こした。汗は滝のように流れ落ち、何かを訴えるようにこめかみがズキズキと痛む。全力疾走した後のように息が切れて、くらりと目が回る。
 込み上げる吐き気を無理やりなだめて、深く深呼吸して明彦は暗い部屋を見る。
 寝ていた場所はいつものソファではなくシンプルなベッドで、あとは何も置いていない。そういえば引っ越したんだった、と気付いたのは呼吸が落ち着いてからだった。

 イーノック=アリングハムに殺されかけたあの日から明彦の日常は一変した。
 毎日慈淵か庭木、時々水澄に着いて回り、人の殺し方、人のなぶり方、死体の有様を教え込まれた。慈淵についていけば目の前であっさりと奪われる命を見続け、時々彼相手に殺し合いに近い組手をさせられることもあり生傷が絶えることがなくなった。庭木についていけば様々な人間の見られたくない部分を見させられた。それは男女の交尾だったり、表で出せば裁かれるだろう取引だったり、人が人を恨み殺すことを願う場面だったり。それに加えて拷問の仕方。庭木がなんてことないように人の指の関節をネイルハンマーで潰した時に耳を劈いたあの絶叫は今でも忘れられない。人をギリギリまで殺さず心を折るその方法を実践付きで教えられた。ようやく終わったと思えば水澄に引きずられて彼の作品である奇っ怪な死体を見せ付けられる。タイミングが悪ければ元の死体を解体する場所から見せられる。
 当初明彦は吐いた。慈淵が目の前で人を殺せば吐き、庭木の手で肉体を痛めつけられた人間を見ては吐き、水澄が切り落とした死体の断面を見ては吐いた。もう吐くものは何もないはずなのに、それでも込み上げてくるものを耐え切れず吐き出した。
 その度に慈淵に、庭木に、水澄に呆れたように言われ続けるのだ。

「おいおい、それで吐いてるとか、堪え性ないんじゃないのォ?」
「殺した訳じゃないジャン、何怖がってるのサ?」
「これはもう、物ですよ。人間ではありません」

 変だな、お前は。 三人が三人とも同じことを言い続ける。最初はあんたらのがおかしいと言い続けていた明彦は、やがて自分がおかしいのかと思い始めた。なぜなら自分がここにいるのは自分でイーノックを殺すと言ったから。その為の技術を教えて貰っているのだ。他でもない自分が。
 自分はおかしいと思い始めてから、明彦は人の死を見ても動じないよう自分を律した。自分で自分の心を切りつけて追い詰めて虫の息にした。人の苦痛の叫びを聞いて、同じ様に叫びそうになった自分の感情を閉じ込めた。これは物だと言い聞かせながら救済を乞う人の爪と指の間に自ら針を通した。人の死体を見ても物だと、これは物なんだと洗脳して悲鳴を封じ込めた。硬直すら始まっていない死体の血抜きをするために自分でその足を落とした。

 その度恐怖で泣き叫ぶ心を殺し続けた。同時に湧き上がる何かを必死に蓋をし続けていた。それがなんなのか自分ですらわからなかったが、ともかく表に出すべきではないと思っていた。
 生活環境も変わった。芳が嗅ぎつけられても困るから、と新しく家を建ててそちらに引越した。その日以降明彦と芳は以前までのような会話や、コミュニケーションをとるようなことを一切しなくなった。ただ淡々と芳が明彦に仕事を言い渡し、明彦は無言で了承するだけで、ひどいと同じ家にいるのに顔すら合わさない始末だった。また明彦の一旦の就職先として庭木の上司がいる事務所へ連れて行かれた。庭木の上司だと名乗った西郷さいごうは明彦を見ることなく『庭木、迷子拾ったら連れてくのはうちじゃねえぞ』と言い捨てた。流石に言い返そうとした明彦を制して庭木はにんまりと口の端しを釣り上げる。

「西郷っちは、あきっちイラネってこと?」
「あん?」
「これ、かおっちからの預かりモン♡」
「はぁ!? うちで面倒見ろってか!? 託児所じゃねえんだぞ!!」

 目を剥いて怒鳴り散らす西郷に、庭木は元々ニヤついていた口元を更に釣り上げてそれはそれは楽しそうに声を弾ませた。

「だよねぇだよねぇ! うちで子守はしないもんねぇ!」
「……おい庭木、お前まさか」
「西郷っちがいらねーんならこれ俺にちょーだい♡」
「はぁ!?」

 これには西郷だけではなく明彦も動揺した。しかしそんなことは知ったこっちゃないと言わんばかりに庭木はマイペースに話を進めていったのだ。
「運動神経抜群で、色々初心者のあきっちはァ、俺っちの部下! へへっこれで俺楽できるゥ」

 おいちょっと待て、運動神経ってどういうことだ!? と叫ぶ西郷を尻目に庭木が明彦をその日一日引きずり回したのは記憶に新しい——実際は調査と拷問詰めで気を緩める暇などなかったわけだが。
 怒涛の勢いで明彦のこれまでが壊され作り替えられる。今まで積み上げてきた道徳概念が否定される。別の常識が押し付けられる。しかし壊されて否定されたこれまでの常識が夢に出てきて明彦を責め立てる。明彦はもう何も考えてはいなかった。ただ渡されるものを無感動に受け取って、吐き気を堪えて飲み込むような、何かに溺れそうな日々を送る。時々息をしているのかわからなくなって煙草を燻らす。その瞬間だけしっかり息が出来ていたと認識しては自分はまだ生きていると安心した。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆

 庭木の使い走りで外に出ていた時だった。こちらのが近い、と裏路地を通った明彦の腕が強く引かれる。体制の崩れた明彦の胴体にも腕が回され一気に物陰に引きずり込まれる。
 はは、と自分の耳元で聞こえた声に聞き覚えがあった。

「よぉBoy,また会えて嬉しいぜ?」

 迂闊さを嘆くより早くぶわ、と全身から汗が噴き出す。あの時の恐怖が一気に蘇って目眩がした。声を上げようと口を開くもそれより早く男の、イーノックの手で塞がれる。殆ど反射的に噛み付こうとしたが顎の付け根に力を込められてうまく口が塞げない。
 べろりと、明彦の耳の裏をイーノックが舐める。

「この間のは善かった、実に善かったぜ? 途中いらねえ邪魔が入ってイラついたけどよぉ。なあ、ありゃ誰だったんだ?」
「し、しらな」
「嘘つくなって。俺とお前の中だ、仲良くしよう。友好的に、情熱的にな?」

 言い終えると同時にイーノックが胴体に回していた手を腹に這わせていく。その手に硬い質感を感じて明彦の身体が強ばった。見るまでもない、ナイフがその手に握られている。
 手負いの獣の様に息を荒げる明彦を満足げに見ながらイーノックは明彦の肩に顎を乗せる。傍から見れば男が男を抱きしめている滑稽な姿だっただろう。イーノックの手にナイフさえなければだが。
 顔を抑えていた手が外される。すぐに手首を掴まれて背中へとねじ上げられる。引きつる痛みに明彦が呻けばかき消すようなイーノックの嗤い声が響いた。臀部に何か硬いものが押し付けられている。それが何か理解して明彦の顔から血の気が引いた。がくがくと足がみっともなく震える。立っていることすらままならない。それすらも楽しそうに見ながらイーノックが舌なめずりをした。その濡れた音が明彦の耳朶じだを叩く。

「なぁ、わかんだろ? お前もオトコノコなんだからサ。俺が勃起して興奮して、落ち着かねえの。分かってくれんだろ?」
「し、しらな、ッわから、ないッ……!」
「カマトトぶってんじゃねえって。寂しいじゃあないか。なぁ?」

 つ、とナイフの先端が明彦の腹部にくい込む。はくはくと口を開閉するすか出来ない明彦の耳元でイーノックはうっとりと囁いた。

「ほんじゃ、ヤってくかァ! イイ声で鳴いてくれよ?」
「や、め」

 ずぐり、と明彦の皮膚を裂いて肉を切り裂きナイフの冷たい刃は埋め込まれる。まるで侵略していることを思い知らせるようにゆっくりと押し込んでいく。恐怖と激痛に目一杯開かれた明彦の口からはくぐもった悲鳴と粘ついた水音を響かせながら血が溢れる。不快な音を立てながらコンクリートの上を斑に飾り付けていく。やがて斑が繋がって赤く染まった床へ明彦をゆっくり寝かすとイーノックは覆い被さった。浅い呼吸を繰り返す明彦に顔を近付けて口元を染める血を舐めとる。甘美であると、うっとり笑みを形作りながらイーノックの手はナイフの柄を握っていた。

「ハハッ、お前の処女貰っちまったな? いーい散りザマだぁ、声殺しちまって可愛げさえある。そっちの才能もあるんじゃないか?」
「ァ、ギッ、は、、っ」
「相変わらず声も好い、締まりもいいんじゃねえか?」

 そう言いながらゆっくりとナイフを引き抜いていく。自分の皮膚より下に埋まっていた刃が入口付近まで時間をかけて引きずり出されて、同時に血が溢れ出す。と、思った瞬間また同じ早さでゆっくりと差し込まれていく。
 抜かれて、挿れ込まれてを繰り返される。明彦の焦点がブレていく。ナイフの出入り口になっている腹と口から血が止まらない。いつの間にか開かれた足の間にイーノックが割り込んでいた。明彦の股間にイーノックの勃起したそれを押し付けられて、揺さぶられる。視界一杯のイーノックが、いっそ慈悲さえ感じる笑みを浮かべながら涎を垂らす。明彦の顔を濡らす。それを明彦の口から溢れ続ける血ごと啜ってまた嗤う。血が滴っている以外は、まるで性行為のようなそれを明彦は認識出来ない。明彦の痛みが消えて寒気がどんどん強まっていく。イーノックの絶頂感が増して熱がどんどん燻っていく。
 手足が冷え切って、明彦の意識が消えかけた時だった。

「チィィィィイイイイッス! オタノシミのトコロお邪魔しまァァアアアーっす!!」
!?」

 軽快な掛け声と共にイーノックが奇声を発する。かと思ったら明彦の上から飛び退いた。とん、と軽い音と共に着地した迷彩柄を最後に明彦の意識は黒く塗りつぶされた。
 

 庭木はくん、と鼻を鳴らした。大量の血と、わずかに届いた青臭さに眉間を寄せる。にったりつり上がった口元とは裏腹に全身嫌な汗が吹き出ていた。
 正直自分はこういった荒事は向いていない、というのが庭木の自己評価だ。拷問は相手が抵抗できないのが前提だからできるというだけであって正面切って戦うなんてことはまるで向いていない。現に今奇襲をかけようとしたがそれより早くイーノックが庭木の方を見た気配がしたから慌てて大声を出して襲いかかる方向へ変えたのだ。声さえ出せば人が集まる。
 それは善人悪人関係なしに気づかせるための狼煙のようなものだった。
 イーノックは国際指名手配犯。太刀打ちできるかは別として、当然その首を狙っている人間だっている。裏稼業を生業としている庭木の身近にも当然いる。

「ナーイスにわちゃーん! さっすがお鼻いいわねぇ~!」

 うち一人はイーノックへと飛び出していった慈淵だ。明彦本人すら知らせていない盗聴器の発信電波から位置を特定し二人で先行した。水澄は気分が乗らないと待機しているが一応彼もイーノックの首に用がある人間である。
 そして。

「庭木! それこっち投げや!」
「あぁい了解デース♡」

 庭木が意識を失った明彦からナイフを抜き窓目掛けて勢いよく投げ飛ばす。がしゃん、と立て付けの悪かったサッシごと窓が外れて落ちる。砕けたガラスの断末魔の中、明彦の身体を受け止めたのは煙草と香水の匂いを纏わせた男で。
 イーノックの首を最も欲している、芳だった。
 慈淵と組み合っていたイーノックが芳と明彦の方を見た。それを隙だと判断して庭木もイーノックの懐へ飛び込む。庭木の耳には芳が全力で走っていく音が届いていた。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆ 

 庭木と慈淵が時間を稼いでいる中芳は全力で路地裏を駆け抜けていた。腕の中の明彦の息は弱い。血を吸った服は重く、力なくだらりと伸びた腕からはねとりと赤い雫が垂れていた。抱えている芳の服も赤く汚して尚染みは広がっていく。臓物が飛び出していないだけまだ幸運だと思う他ない。
 祈るような心地だった。間に合えと、目の前で終わってくれるなと信じてもいない神に祈る。芳の頭の中で流れるのはかつて自分が惚れた女の骸の感触で。弛緩した身体は重いのに、もうそこに彼女はいなくなって、軽く感じたあの感触。やめてくれと、もう嫌だとごねるように芳の足が前へ進む。
 ふ、と明彦の睫毛が揺れる。慌てて立ち止まればゆるりと明彦の焦点の合わない赤い目が彷徨うように宙を見た。やがて安定しないその視線を芳に向ける。

「明彦!? 聞こえとるか!? おい!!」

 芳の声は、しかし明彦には届いてないようで再び瞼を閉じて弛緩する。乾いた血がこびりつく唇がにわかに揺れた。あすかい、と。
 それを認識した瞬間芳は猛然と走り出した。先程よりも早く、早くと駆け抜ける。路地に転がっていたホームレスを飛び越えて、喧嘩していた猫を蹴飛ばし、ショートカットをするために邪魔な壁をゴミ山を踏み締め飛び越える。乱れる呼吸を無視し、酸素が足りないと痺れる手足も無視して芳は水澄の待機する場所へ飛び込んだ。
 既に準備は出来ている、と言わんばかりに水澄の視線が芳と、意識のない明彦を見る。寄せ集められた机の上に明彦をそっと乗せて芳は水澄を見た。
 見られた水澄はそんな視線を無視し、明彦の服をまくりあげる。怪我自体は一つしかないが、唯一にして重傷の腹部の傷に流石の水澄も顔を顰めた。何度も刃物を出し入れされた傷口が広がり細かく荒くボロボロになっている。乾ききらない血を拭いながら水澄は抑揚のない声で告げる。

「内臓が傷付いていますが何とかなります。傷口はボロボロですがまあ、縫えるので問題はありません。治せます」
「……さよか」

 明彦の血に塗れた芳は息をつく。そんな彼を暫く眺めて、水澄はぽつりと呟いた。

「このまま死なせてはいけないのでしょうか」

 その言葉に芳はのろりと水澄を見る。水澄は芳に一切目もくれず明彦の青白い顔を見ていた。

「どういう意味や」
「そのままの意味です。彼、生きるのが辛そうでしたし。このままならば、きっと彼は、救われる。死んだあとは、ええ、私が化粧をして、綺麗にしてあげますから」

 水澄がにわかに上擦った声でそこまで言い切った瞬間、ごつと水澄の頭に硬質な何かが押し付けられる。ゆっくりと水澄が視線を上げれば芳が銃口を頭につきつけていた。セーフティも外され、引き金を引けば弾はあっけなく水澄の頭を砕くだろう。それでも水澄の顔に感情が含まれることはない。それが芳の苛立ちに拍車を駆けた。

「四の五の言うとらんとはよやることやれや。殺すぞ」
「だめでしょうか。彼、死んだほうが綺麗だと……」
「はよやれ言うてん。わからへんか? これ以上無駄な事喋るんやったらお前ご自慢の作品、日の目見せずに燃やすで」

 その言葉に水澄の目に感情が宿る。怒りだ。憎悪と言っても過言ではない。隠しもしないそれを真っ直ぐ芳に向けている。だからどうした、と芳も真っ向から睨み返す。

「貴方のそういう所、嫌いです」
「奇遇やな。俺もアンタ大嫌いや……やれ。死なせても焼くぞ」

 不服そうに鼻を鳴らした水澄は、言葉を発すること無く明彦の腹部へ手を伸ばした。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆ 

 庭木が豪快に投げ飛ばされる。したたかに体を打ち付けながらもすぐに体勢を整えてイーノックの背面へ回り込む。イーノックは庭木に視線を向けるがその瞬間慈淵に組み付かれ、自分へ向かって真っ直ぐ振り挙げられた彼のナイフの切っ先を自分のそれで弾いて慈淵を殴り飛ばす。が、死角になる側面から庭木が蹴りつけてくる。靴の先端に金属片が飛び出したように見えて髪ひと束を犠牲に避ければ、はらりと見捨てられたそれが舞う。鬱陶しげに髪を払ってその足を引っつかみ思い切り引き寄せれば、うぇえ!? と奇声をあげながら体勢を崩す庭木にナイフを切りかかった。しかし腕に鈍い衝撃を感じて振り返る。慈淵が深々とイーノックの腕にナイフを突き刺していた。その隙を付いて庭木は空いている方の足で思い切り掴んでいるその手を蹴飛ばした。一瞬置いてなくなった拘束感を是と言わんばかりに庭木はすぐさま距離を取ったのだが。

 ぷす、と空気の抜けたような音がしたと思うと太腿に激痛が走る。鉄の匂いが鼻を突く。触ってみれば穴が空いていた。ぬち、と嫌な音が感触と共に駆け上がる。
 サイレンサーのついた銃口が庭木の脳天を捉えた。慈淵が庭木に組み付いて射線から強引に外したその一瞬後庭木の居た場所が弾丸で抉られる。
 慈淵は庭木を立たせるとちっ、と舌打ちする。無造作に抜き捨てられた慈淵のナイフがからからと音を立てて地面を滑る。庭木も気付いたのだろう、そっとパーカーのポケットに手を当てていた。
 先程からイーノックを何度も切りつけている。何度も殴り、何度も隙をついて顔を、腹を狙って蹴りも何もかもを叩き込んでいる。それなのに彼は怯みこそすれ痛がる様子が一切ないのだ。この状態の人間を二人はよく知っている。

「お薬ですかァ……あーやだやだ」
「まぁな。アンタらもキメてみるか? 最高にハイになれる」
「お断りしますゥ! 健全な青少年ですので!」

 ひえぇ、と庭木が悲鳴をあげる。実際、慈淵も悲鳴をあげたかった。痛みがないということは死にかけている自分に気づかないということだ、いずれは死ぬだろうがその前に二人が力尽きて殺される。なにせ目の前にいる殺人鬼は元軍人なのだ。純粋な腕力も技術も知識も、何もかも自分たちが叶う要素がない。
 引き際か、と慈淵がこきりと指を鳴らす。その瞬間庭木が窓の方向へ走り出した。

「へぁぁあやってらんねぇえええ!! 俺は帰るおっ!!」

 奇声と共に窓を突き破り庭木が外へ飛び出す。だがイーノックはそちらに目も向けず、銃を構えて引き金を引いた。
 庭木の腰から血が噴き出す。両膝をついた庭木の頭へ今度こそ鉛玉を沈めてやる、とイーノックが向き直った瞬間慈淵が飛びついた。
 それもわかっていた、と言わんばかりにイーノックは反対側の手でもっていたナイフを勢いよく慈淵の胸へ突き立てる。深く刺さったそれを、慈淵の目が呆然と見る。刹那、慈淵の肩に熱を孕んだ銃口が押し付けられて一発。続けてもう二発、打ち込まれる。
 慈淵の口がだらしなく開いて、そこから血が——溢れなかった。虚を突かれたイーノックを見た慈淵の口角が釣り上がる。

「外れだよ、哥哥オニーサン

 その言葉を理解するより早くするりと慈淵がイーノックの脇をすり抜ける。追いかけたイーノックの視界が真っ白に染まった。
 

 イーノックの絶叫を背後に慈淵が胸に突き刺さったナイフを引き抜き投げ捨てる。服の下には防弾チョッキを二枚重ねて着けていた。体形を隠す服を着てかつイーノックに観察されないよう意識を逸らしながら動き回っていためなんとか気取られずに済んだのだ。しかし肩は無防備だったためだらりと力なくぶら下がり、血がとめどなく溢れる。と、ひらひらと揺れる手を見つけて慈淵はそこに滑り込んだ。壁に持たれて脇腹を抑える庭木が居た。

「にわちゃん、ナイスグレネード。お宅のパイナポーいい起動描いてたわよ」
「でっしょぉ。もっと褒めていいのよ」 
「じゃあ俺も褒めて、あいつすんげぇ顔してたからサ」
「よちよち♡」
「うわっムカつく」

 ははは、と二人で力なく笑う。慈淵が指をを鳴らした後奇声を発して逃げ出した庭木は囮だった。事前に打ち合わせた合図で、庭木がしたパーカーのポケットに手を添える行動は交戦終了を、慈淵が関節を鳴らす音は撤退のタイミングを示していたのだ。それを聞いた庭木は、とにかく一瞬でも慈淵からイーノックの意識を引き離す為に騒ぎ、わざとイーノックの気を引くような逃げ方をした。そして慈淵の組み付きは、庭木がイーノックの意識から外す為の行動である。庭木が閃光弾を投擲し、逃げ切れるまでの距離を稼ぐための、二段構えの囮作戦だ。
 勿論ここで合流したのも偶然ではなく打ち合わせで決めていた。ここなら人気が少ないとは言えゼロではない。これは慈淵の予想だが、イーノックは気が立っていれば視界に入った人間全員を殺すだろう。そうすれば逃げ切るだけの時間は確実に稼げる。自分たちが逃げるために犠牲になる者たちへの配慮など一切ない二人だからこその逃走経路だった。

「……とりま、かえろっかあ」
「うんにゃ」

 血を流しすぎて重たくなった四肢を無理やり引きずるように、庭木と慈淵は歩き出した。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆ 

 明彦が薄らと目を開く。コンクリートの天井に、薄暗い空間が以前襲われた時に庭木によって運び込まれた所だと分かって、飛び起きようとする。しかし腹部に激痛が走り、起き上がることは叶わなかった。諦めてそのままもう一度倒れこむと、深い紫が白いシーツの上に散らばっているのに気づく。

「かおる」

 その声に反応したのかぴくり、と肩が跳ねる。そのままゆっくりとした動作で上体を起こした芳が明彦の顔を見て一瞬驚愕に表情をこわばらせたと思ったら次の瞬間には心底安心したように、力なく笑った。

「おはようさん。寝すぎやで自分。呑気やなあ」
「ご、めん?」
「疑問形かい、ほんま……」

 心配かけおって、とため息をついた芳に明彦の中でぶつりと緊張の糸が切れた。

「ッ、ぐ、ぉえ、げぇッ!」

 競り上がってくる嘔吐感に思わず口元を抑える。力んだ拍子に腹の傷が開いたのか、包帯が赤く滲む。芳が慌てて明彦の身体を起こし背中を摩る。
 何度嘔吐いても、戻ってくるのは消化液だけだ。食道を焼くような痛さに大きく咳き込んだ。気持ちが悪いのに吐き出せず酸素だけが過剰に取り込まれ過呼吸になる。
 明彦の目の前に紙袋が出されるが、そんなの出されても吐けない、と芳を見上げれば芳の指が明彦の口内に突っ込まれる。無理やり喉の奥を押されて、ようやく明彦が僅かな胃液を吐き出した。
 芳が口をゆすげと水の入ったグラスとボウルと手渡してきた。口を濯いでようやく落ち着いた明彦の背中をぽんぽんと叩けば明彦はぐったりと芳にもたれかかる。
 お互い、何も喋れなかった。ただ呼吸すら憚られるだけの沈黙だけがそこにある。お互い何を考えているのかわからない。故に吐き出せる言葉もなかった。

 ふと、芳が煙草の二本取り出した。一本を自分で咥えてもう一本を明彦の口へ突っ込む。自分の煙草に火をつけて一度吸う。そしてその先端を明彦に咥えさせた煙草の先端へ火のついたそれを押し付ける。それをのろりと見た明彦が、息を吸う。赤い光が煙をあげながらじじ、とフィルターと葉を燃やす。先程吐いたせいか、痛む喉に明彦が小さく咳き込んだ。芳が軽く背中や頭を叩く。
 紫煙が二つ、空間に広がっては溶けて消えていく。それを見た明彦が静かに泣いたのを芳は見ないふりをした。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆

 下水道が流れる、その近くでイーノックは喘いでいた。
 薬が、足りない。薬が足りないくすりがたりないくすり、が。
 いつも自分を戦場の、あの地獄からすくい上げ快楽をもたらすあの錠剤がたりない。思えば今日はいつも以上に血を流していたし、薬を飲んでから時間も立っていた。
 痛い。
 痛い。
 いたい。
 イタイ。
 イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ イタ イイ タ  イ。
 

 ゆるさない。あの赤毛の小僧もパーカーを着た小僧も、白い小僧を連れ去った片目の小僧も、あの白い小僧も。楽に死なせてやるものか。犯して嬲って、身体の末端からり潰して。殺せと懇願しても終わらせてやるものか。
 イーノックに身勝手な怒りが込み上げる。足元を走り去ろうとしたネズミを踏み砕いて、赤がじわりと広がって下水道へと流れていくのを無感動に見た。

「あのガキ共全員、嬲り殺してやる」

 異様なまでの執着と憤怒を滲ませて、イーノックはネズミの死骸を踏み躙った。