ハジマリ

 月すら沈もうと傾きかけた夜深く。ひっ、ひっと男が息を切らしながら裏路地を走り抜ける。途中で蹴飛ばしたゴミ箱や突き飛ばしたガラクタには目もくれず只管走る。その表情は恐怖に歪んでいて背後を確認するのも煩わしいと言わんばかりだった。
 やがて男は袋小路へと出る。行き止まりだと気づいた男の表情は恐怖に加えて焦燥もにじみ出ていた。
 ごつ、と重い足音がする。その足音にひぃっ、と情けなく悲鳴を上げ男は壁を背に後ずさる。
 暗闇からぼう、と浮かぶように白い影が現れる。揺れているのは一つに結い上げた髪だが、それ以外も白かった。黒い服を着ているのか、白い顔だけが宙に浮いているようにも見えて男の恐怖は加速する。
 真っ白な男だった。まだギリギリ少年、と言っても良いだろう何処か幼さを残す風貌の彼が真っ直ぐ男を見ている。体の全てが白いのに、目だけが血のように赤い。
 やがて彼の手にしたものが男に向いた。鈍色の銃口が男の頭を捉える。
 男がわめく。コートのポケットからナイフを取り出して、口の端から垂れる涎も気に止めず襲いかかる。
 しかしその切っ先が彼に届くことはなかった。どっ、と鈍い音をさせて男が崩れ落ちる。背後には違う男が立っていた。

明彦あきひこちゃーん、ぼんやりしてねえでさっさと殺っちゃわねェと。お仕事なんだしさァ?」

 明彦、と呼ばれた白い男は無言で睨めつけるように顔を歪める。金と銀、二色の虹彩がおどけるように明彦を見ていた。

「早いとこ殺っちゃえば? どっちつかずほど早死するんだからサ、ココ」
「……わ、かってる」

 明彦がぎり、と奥歯を噛み締める。視線の先には道化のような笑顔を貼り付けた慈淵じえんが死体を担ぎ上げるところだった。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆

 時は二週間前に遡る。
 あの日、明彦は外に出ていた。教員を殴って停学となり、秋奈あきなの元へ飛び出してかおるの庇護下にいながらも、飛鳥井小桃あすかいこもも桜森妃里さくらもりきさりを探して彷徨さまよっていた。芳もそれは承認していたし、勝手に飛び出してきた割には秋奈も明彦にとやかく言うことはなかった。
 放任主義と言えば聞こえはいいが、所詮秋奈にとって自分はその程度の存在だったのかと思い込んでいた頃、おもむろに芳が『綾小路あやのこうじサンの名誉ん為に教えといたるけどな』と彼女がこっそり芳に自分を見ておけと頼んでいたという事実を聞いたのは割と最近の話だ。
 なんだかんだで見捨てられていないことにほっとしたのと、同時に庇護下から出られないままの自分に苛立った。
 その反発心が、小桃と妃里が見つからない焦燥に拍車をかけていく。

 芳が珍しく焦りを隠さない顔で『今日は外に出るな。絶対や』と自分に言い外出していったのを見送って、しかしそれが何だか腹ただしくて外に飛び出した。一日でも早く二人を見つけたかった。一日でも早く小桃に会いたかった。自分はいつまでも面倒を見てもらってばかりではないんだと知って欲しかった。いつまでも言うことを聞く子供だと、思われたくなかった。
 かつんかつんと、廃ビルの非常用階段を登っていく。こんなところにいるとは思えなかったが、思い込みで探しきれないのは嫌だった。
 

 違和感はあった。いくら非常用階段が錆びていたからと、廃ビルがこんなに鉄の匂いに溢れているわけがないのに。
 どこかで気付いていたはずなのだ、明彦は。ここで引き返すべきなのだと。それでも一重に引き返さなかったのは二人が、小桃がいるかもしれないという期待からで。
 階段を駆け上がり、非常階段からすぐ近くの部屋で明彦はそれを見た。
 虚ろな目。
 目を眩ませるような赤色。
 赤に塗れるように転がった、肉。
 散らばる黒い髪に、あの白いのはなんだ。
 しかしほとんど原型を留めていない中で顔だけはそのまま人間だった。とうとう解放されず苦しみ抜いた人間、その最期の表情。

「——ひ、ッ」

 悲鳴をあげそうになった明彦の背後から衝撃が走る。そのままろくに受身も取れずに転がって床に散らばった瓦礫と、肉片に塗れる。苦悶の表情のそれと、目が合う。
 それを認識して恐怖し立ち上がろうとして、上から押さえ付けられた。

、ッ!?」
「おやァ? おやおやァ? 白いからババアかと思ったらガキ、しかもオトコノコ」

 明彦の顔を掴んだまま、それは実に楽しそうにそう言った。ケロイドが顔半分を覆っている男だった。その目を見て明彦は頭の中で警鐘がなったのを確かに聞いた。
 ——やばい。やばいやばいやばい! 危ないなんてもんじゃない、逃げないと、当たり前のように、息をするように殺される。——いや、これは。

(手遅れじゃ、ね?)
「おぉうい、返事してくれよWhite boy.生きてんだろ?」

 そう言うが早いか、男は明彦の胸の上に腰を下ろす。圧迫されて呻く明彦の顔から手を離し、しかしすぐに首を掴んで力を込める。込められた力こそ強くはないが、生殺与奪権は完全に男のものだった。今この瞬間、明彦の命は明彦のものではなくなったのだ。思わず男の、首を捕まえる手を両手で掴みどけようとするもぐ、と胸元へ体重をかけられて思わず息が詰まる。刹那、左肩に衝撃が走り、次いで熱くなったと思ったらそれはすぐに激痛に変わる。
「あぁぁあああッ!? い、あ、ぁッ!?」
「おーいい声ェ。やっぱ年食った女よりは若い男のがく鳴くねェ!」

 本命は女なんだけどサ、と歌うように言いながら明彦の左肩に突き刺したナイフを戯れるようにいじる。容赦のない行動は当然、激痛を生み続けた。激痛は恐怖を呼び、感情のまま絶叫へ変わり、同時に激しく身を捩って逃げようと抵抗する。それが鬱陶しく感じたのか、男は右腕にもう一本、ナイフを突き立てた。

「あ、がっ! いだ、やッ! あ、、ぁぁあああぁッ!!」
「はいはい大人しくしようねぇ、いい子だものな? 大丈夫だって、脈は外して刺してんだから暴れなきゃすぐ死なねえって、な?」

 あやすように微笑みながら男は言う。ぐ、と近づいてきた双眸に明彦は思わず息を止めた。目が逸らせない。逸らした瞬間死ぬかもしれないと言う恐怖が明彦の喉を、身体を凍りつかせる。
 その反応すらおもしろいのか男はにやにやと明彦を見下ろしていた。す、と首を絞めていた手が離れていく。び、と裂ける音がしたと思ったら自分の腹が外気に晒されたのがわかった。
 男の毒々しいデザインの指輪の先端が、明彦のシャツを引き裂いていく。晒された無防備な腹に男はゆっくりと指を這わせていく。

「さっきのババアはよ、自分のツラも年齢も気にせずメスのように鳴くもんだから萎えてな? ここを、ゆっくり、あけて」
「う……ッ」
「内臓を傷つけずに開けてよ、ひ、ひひッ、そこに、ちんこぶち込んで、くは、ははっ! 犯してやったんだよ!! アハ、アハハハハハ!!」

 明彦のへその当たりで指に力を込めながら男は甲高く嗤う。もはや声も出ない明彦に目もくれず嗤う。嗤う。ただただ嗤う。
 ふと、その嗤い声が止まった。

「お前はどうしようか? もうちょっとあちこち刺してから、首絞めながらヤっちゃおうかなって思ってんだ。さっきのババアは痛めつけたからさァ、お前はどうしよう? な? どうされたい? 俺的には犯して殺したいんだけど? どうだ?」

 さぁっきもさぁ、ヤり足んなくて死んだ後も突っ込んでたんだけど、と楽しそうに男が語る。語りながら明彦の腹へ爪を立てて、浅く皮膚を裂いていく。
 自分の命の権利も、陵辱する権利も、全てこの男が握っている。どのみち、死ぬ。侮辱と恐怖に塗れて。——小桃にも、会えずに。
 じり、と理性が焼ける音が聞こえた気がした。
 

 男は実に楽しんでいた。思わぬ拾い物だ。男であるのが少々残念だったがそれでも先ほどの女より若い。若いほうがいい。希望をもって、助けを求めて、死ぬ刹那の絶望が、幼く若い程深いからだ。その声を、最後を見るのが好きだった。それまでに刺して切って抉って犯して削いで塞いで焼いて貫いて。穿うがってえぐり貫いて撃ち抜いて引きちぎって。ありとあらゆる方法でおとしめて辱める。希望が消えるその刹那を見届けるために。その瞬間が男にとって最高の瞬間だった。エクスタシーと言っても過言ではないし、実際何度も射精した。真っ赤になった、人間だった肉に自分の体液が白く混ざる。性交と何ら変わりない。
 この目の前の男、いや少年をどうしてやろうか。そればかり考えていて男は少年の目の色が変わったのに気付かなかった。

ぁぁあ!!」

 人語を忘れたように少年が、明彦が絶叫する。否、それは先程のような獲物の哀れな叫び等ではなかった。狂気に染まった咆哮だった。
 耳を劈く声に怯む前に男の脇腹にど、と何かが刺さる。明彦の右腕に刺さっていたナイフだった。間を置かず腹部に衝撃を受け、男が吹き飛ぶ。先程殺した女の死体の上へ転がって、咄嗟に避ける。一瞬後に明彦が自分の肩から引き抜いたナイフを振り下ろして死体に突き刺す。
 構わず引き抜いたナイフの切っ先を、明彦は滅茶苦茶に振り回した。外したと思ったらすぐに男がいる方へとナイフを振り上げる。
 男は困惑した。先程まで声すら上げられなかった少年が、今真っ赤な目と共にナイフを向けている。こんなことは初めてだった。
 錯乱して自分へ襲い掛かる存在は——内戦地での、あの時以来か。
 一瞬だけ過去に飛んでいた自分の意識を引き戻す。そして改めて男は明彦を見た。
 荒い息と、濃厚な血の匂い。白い髪が赤く汚れているのは彼自身のものなのか、それとも先に殺した女のものなのか。腹は今しがた己が付けた傷が白い少年の腹を赤く飾りあげている。
 何よりその少年の目は、あかく狂気に染まっていて。
 ぞわと、背筋が粟立った。白と赤は元々好きだった。赤を白で汚すのも大好きだった。
 ——たった今、白を赤で染めるのも、好きになった。
 

 男が嗤いながら自分の脇腹からナイフを抜き明彦へ突っ込んでいく。明彦は咄嗟に横に転がった。すぐに立ち上がって男から距離を取る。咄嗟に転がっていたコンクリートの塊を手に取り男めがけて投げるが、勢いも乗って重たいはずのそれが肩に当たっても尚男は怯む様子もなく明彦へ接近した。手に触れた鉄パイプを握り締めて力の限り男の腕を狙う。読んでいたのか男が遅くはない速度で振るわれた鉄パイプを受け止め握り込んだ。もう片方の手で握ったナイフを明彦めがけて突き出す。足を振り上げその手を蹴り上げたのは殆ど無意識に近い。ぼきんと嫌な音の後に、かしゃんとナイフが落ちる軽い音がした。
 その瞬間男が口の端をこれでもかというくらい釣り上げて明彦を見た。握っていた鉄パイプから手を離す。バランスを崩した明彦の手首を掴み直し思い切り自分の方へ引いて、二人で女の死体の上に倒れこむ。
 男に覆い被さる形で倒れた明彦は起き上がろうと手に力を込める。刺された箇所から血が溢れるが構うことはしない。しかし男も明彦を抱きしめて離さない。明彦の太ももに勃起した男のそれが押し付けられ、乱暴にベルトを外されていく。
 ちらりと、ケロイドに埋め尽くされた男の耳が明彦の視界に映った。は、と息を漏らす。口を開ける。
 ぐにゅりとした感触が歯を伝い口内へ広がっていく。そのまま力を込めて、あぎとを締めていく。
 明彦が大きく首をのけぞらせると、ぶつり、と音がした。男が始めて嗤う以外の声を上げる。口の中の耳たぶだった肉片を吐き出して男の上体を押し起き上がろうとする。明彦の太ももは濡れていて、ズボンが変色し、白い液体が男の股間の間で糸を引いている。男は射精していた。その事実に目もくれず馬乗りのまま殴ろうとした明彦の髪を男は掴んだ。体制が入れ替わる。男が明彦見下ろした。
 血走った目で男は明彦を見た。
 ぎらつく目で明彦は男を見た。
 どちらも殺意と狂気しかなかった。正気も理性もなかった。ただ、僅かに明彦の目には恐怖が滲んでいた。たったそれだけの差しか男と明彦にはなかった。
 男のナイフが明彦の喉笛めがけて振り下ろされる。明彦のナイフが男の心臓めがけて突き進む。

 ——タァン、と軽い音がして男の肩から血が溢れ出す。それを合図に廃墟の一室が煙幕に覆われる。

 状況を理解する前に明彦の上から男が吹っ飛んだ。辛うじて視界に映ったものは見慣れないブーツを履いた足。それを理解する前に明彦の腕が引かれる。そのまま担がれて、明彦はなすがままになっていた。
 煙幕の中で、男が怒号を上げていた。
 
◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆ 

 明彦を担いだ何かはそのまま廃墟の中を駆け抜ける。揺れる視界とぼんやりした意識の中、明彦は迷彩柄の後頭部だけが視認できた。視界の端でも揺れている迷彩柄はなんだろう? その疑問は口に出されることはなかったが。
 なぜならそれは平らなところを駆けたと思ったら飛び降り、傾斜を走り抜け、窓を飛び越えていたからだ。喋ろうとすると舌を噛むことは間違いなく、喋ることなど不可能だったのである。
 やがて、明彦はダストシュートに放り込まれる。捕まるもゴミからでた油分やら腐敗物で手が滑り勢いは衰えない。悲鳴をあげながら明彦は見事にゴミの中へ飛び込むハメになった。しかしゴミに埋もれていたのも一瞬で、また担がれて運ばれる。やがて暗闇に慣れた頃、薄らと明るい空間へ無造作に転がされた。

「あーあ、きったな。野良犬のがまだマシやないの」

 聞き慣れた、しかし知っているものより幾分冷えた声に明彦は思わず顔を上げる。
 赤毛のピアスだらけの男と、色素の薄い長い髪を床に垂らした一見では性別がわからない人間。そして、自分を担いできただろう迷彩柄の、なぜかうさぎの耳がついたパーカーを着た三つ編みの男。
 そして彼らの中心に

「よぉ明彦。六時間ぶり位やろか? このクソガキ」

 ゴミのがまだましだと、雄弁に目で語る芳がそこにいた。好奇心と冷たい視線を浴びながらなんで、と口が辛うじて動いた明彦の前髪を芳が掴み顔を引き上げる。

ッ!?」
「外出るな言うたよな? 俺。聞こえてへんかった?」

 物分りの悪い子供に言い聞かせるような口調だった。しかし、声音とそこに伴う感情がまるで噛み合っていない。明彦が逃げるように目を逸らせば掴まれたままの髪を更に強く引かれる。

「聞こえへんかったか、って確認しとんやけど。なぁ、答えられへんのかその口は」
「き、きこえ、てた」
「なんで言うこと聞かへんの? その耳飾りか? そないな耳いらんやろ、落としたろか?」

 もう感情も込められていない目で芳が、明彦の顔を覗き込む。ひぐ、とみっともなく喉を鳴らした明彦の髪から突然手を離せば、明彦は顔からコンクリートへ倒れ込んだ。ひどく無様だった。
 一方手を離した芳はパーカーの男に向き直っていた。その手首はパーカー男に掴まれている。

「まーまーかおっち、このコゴミとかザーメンで汚ねぇから取り敢えず風呂入れたげようよォ。俺っち鼻もげちゃう」
「好きにし。あと離せや。お前の手首、折ったろか?」
「やんっこわァい♡」

 パーカー男の猫撫で声にきっしょ、と言い捨て芳が踵を返す。明彦が芳を呼び止めるより早くパーカー男が遮るように明彦の目の前でしゃがみ込んだ。

「今かおっちに喋りかけない方がいいと思うなァ。君、空気読めないほどあんぽんたんに見えないんだけど、実は頭悪いカナ?」
 明彦の沈黙を肯定ととったのか、パーカー男が明彦を抱き上げる。『じえっち、みすみっち、およふくと救急箱よろしくネ』と男の陽気な声だけがそこに響いた。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆ 

 碌な抵抗もできず、パーカー男に服をひん剥かれ丸洗いされ、パイプベッドへ引っ張られ手当をされる。呆然としている明彦の元へ、芳が顔を出す。先程の酷薄な声と視線を思い出して後ずさった明彦にバツが悪そうな顔をしながら近くで立っていたパーカー男に声をかける。

「庭木、ちょお外出とって。後で呼ぶさかい」
「んぇ、まだお仕事しに行かなくてもいいの?」
「後で追加で頼むことあるかもしれへん、近くで情報まとめてとって」

 あぁい、と陽気な声で返事をしパーカー男、基庭木が明彦にバイバイと小さく手を振って出て行く。室内には芳と明彦だけが残された。
 まさか本当に耳をちぎられるのか、と咄嗟に両耳を抑えた明彦に芳ははあ、とため息を着いた。

「いや削がへんわ。わかりやすすぎてこっちが落ち込むで」

 その声音がいつも通りで、じわりと明彦の目が滲む。しかしそれを遮るように聞こえた芳の声は先程の冷え切ったそれだった。

「厄介なんに目付けられたな、お前。せやから外歩くな言うたやろ。お前一人のせいで予定丸っと狂ったわ」

 何も答えられずに視線だけを向けた明彦に一瞬、いつものように頭を撫でそうになって芳がそれを押し留める。ここからの話は彼の今後が掛かっている。甘やかしはできない。
 ——せめて、あれに遭遇せずにいられたら、まだ己は彼にとってただの同居人でいられたのに。その感情に封をして、芳は口を開いた。

「自分が今日会ったんな、国際指名手配犯やねん。猟奇殺人の外人さん」

 告げた瞬間明彦の顔色が一気に悪くなる。血の気が引く音が聞こえた気がするような、そんな勢いだ。それには見て見ぬ振りをして芳は淡々と続ける。

「あれの厄介なんは、日本の犯罪者……あー……いや、ヤクザやら裏稼業しとる人らで保っとる秩序をな、滅茶苦茶に狂わせるような殺しすることやねん。日本も黒いとこあるんはまあ想像つくやろ。ただその黒い部分も無法地帯ではあらへん。パワーバランスがあるんよ。かろうじてやけどそこで均衡とってるおかげで裏で人を殺し合いしまくるような、そんなスラムみたいなとこが少ないんやわ、日本は。まあ武器の規制が他の国より厳しい言うんもあるんやけど、世界的に見ても日本はお行儀がええねん。それをあれは引っ掻き回すんや。このままいったらどうなるかわかるやろか?」

 暗に理解しろと言葉の外で芳が言う。しかし明彦の頭はぐるぐると回ったままだ。突然開示された、自分の知らない世界に感情も理解も追いつかない。
 何も言えない明彦に、芳が大きく息を吐く。

「一応、選択肢は二つあるで。一つは今までどおり生きて、あいつに殺されるん待つ。速攻死ぬで、あの手の殺人者言うんは嗅覚に物言わして一気に仕留めにくるもんやし」
「……ッ」
「もう一つは俺がお前のこと隠したろ。命狙われても見つけれへんとこ用意したる。ただ、お前は外出られへんなるから小桃ちゃんのことは諦めや」
「い、いやだ!!」

 弾かれた様に明彦の手が芳の胸倉を掴む。目一杯開かれた双眸そうぼうはそれだけは嫌だと切に訴える。それを見ても芳の表情は変わらない。

「正直死にたくねえし怖ぇよ! どうなるか想像もしたくねえ!! でもいやだ!! 飛鳥井を諦めるのだけはいやだ!! それだったら、俺は、し、死んでも……!」
「もう一つ」

 静かな、しかし抑止が働くような声を吐き出しながら、芳がゆるりと明彦の顔をみる。感情が抜け落ちたような顔と、ガラス玉のような極彩色の目がゆっくりと瞬きする。その意味が分からず明彦は困惑しながら手を緩める。それでも芳は能面だった。それに呼応するかのように、吐き出された言葉も単調な響きしかなかった。

「お前が、あいつ殺すか?」
「は?」

 間抜けな声が出た。同じくらいに呆けた顔をするしか、明彦にはできなかった。今、この男は何を言った? 脳が理解するのを拒絶する。

「お前が、イーノック=アリングハム殺すか?」

 拒ませないと、芳が畳み掛ける。

「あいつ殺すんやったら俺もバックアップしたろ。どのみちあれをどうにかしろ言うんが俺の仕事やったし、お前もやるんやったら戦力にしたらんでもない。ただ命の保証はしたらへんし、俺ができるんはお前を裏で生きてけるだけの知識与えて、技術者つけて技叩き込むだけや。逆に言えばお前、もう二度と学生なんて恵まれた生き方できへんぞ」
「そ、れは」
「せやからさぁ」

 芳の声に感情が滲む。切実ささえ感じる程、弱々しくこう言ったのだ。

「小桃ちゃん、探したるから。隠れてくれ、頼む」

 ああ、ほんま甘いわと懺悔のように呟いて芳が項垂れる。そんな芳を明彦は見たことがない。付き合いは長くはないが、同じ空間にいた時間自体は短くもない。芳が自分の懐に入れた人間に対してどうにも甘くなるのはなんとなく明彦も察していた。自分がその対象であることは今初めて知ったけれど。
 ——それでも。明彦はどうしても譲れなかったのだ。

「芳」

 聞きたくないと、芳がゆるく首を振る。今度は明彦が拒ませなかった。聞いてくれと、口を開いた。

「俺があいつ、殺すから。だから、飛鳥井を諦めさせないでくれ」

 吐き出した言葉は、情けなく震えていた。

◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆ 

 ソファ周りに散らばった資料を頭や腹に被りながら、芳は目元を抑えた。活字の見すぎで頭が刺すように痛む。
 今頃明彦は殺し屋の慈淵と同行し人が殺される様を見せられているのだろう。庭木には拷問と追跡、情報収集等の技術を教え込むように金を払って命令してあるし、引きずるような長さの髪をした水澄には明彦に死体慣れさせるために多様な惨殺死体を見せるよう報酬をちらつかせて伝えてある。今のところ明彦は人殺しに手を染めてはいない。だが明彦の動きで殺し易くなったと慈淵が嬉しそうに言っていたのを思い出して時間の問題かと息を吐き出す。

 あの日、イーノック=アリングハムが近場で目撃されたと聞いて咄嗟に思い浮かべたのはまだ帰ってこないウィリアムの安否だった。彼の現在の居場所がここから離れているとは言えあの異常者がどんな行動を起こすのか芳には予測ができない。駆け出しの頃、あの男に関わって死にかけた事を思い出す。まるで自分に興味がない、と言った無感動なあの目を一生忘れることはない。最も、今となっては更に恐ろしいものと遭遇した後なので恐怖こそは感じないが不愉快だった。
 だから、明彦にしっかり説明する必要がないと思ってしまったのだ。あの子は力も強いから。喧嘩だって、慣れているから。何より彼への社会的評価より遥かに素直で臆病なのだから、説明せずとも言うことを聞いてくれるだろう——そんなことを思ってしまったのだ。芳の優先順位の先頭には、ウィリアムがいた。否、ウィリアムを失うかも知れないと慄いた自分自身が、一番可愛かったのだ。
 その結果が、これだ。ただ寂しいと、辛いと迷っていた子供を戻れないところに引きずり込んでしまったのだ。
 いの一番に、重い気分を引きずって秋奈にこの件の報告として電話した際、飛んできたのは罵倒だった。無能と、人でなしと叫ばれた。電話越しに彼女の助手がなだめるのをぼんやり聞きながら、芳はこう言うしかなかった。

「最悪、こっちでしか生きられへんなったら死ぬまで補助するわ」
『だからなんだ。私はお前を許さない。明彦の将来を黒く染めたお前の無能さを許さない』

 間髪入れない返答だった。それでも芳は謝らなかった。謝罪がどれだけ侮辱的か、知っていたから。それだったら一生恨まれようと、芳は最後まで謝る言葉を吐き出さなかった。
 いっそみっともなく謝罪を吐き出してしまえば楽だったのだろう。それでも、謝罪を受けた側の苦痛を知っている芳は己の吐き出す謝罪すらも酷く辛いものだった。恨まれる方が楽だと、そちらに逃げた。
 だらしなく寝返りを打つ。体に乗っかっていた書類が力なく床に落ちた。それを眺めながら芳は煙草に火をつけて、深く吸い込む。
 ゆっくり吐き出された紫煙は、やがて空間に溶けて消えた。