ウラガワ

 かさりと、紙が擦れては軽い音と共に床へと落ちる。その動きに目もくれずかおるはひたすら資料と端末の画面を睨みつけていた。普段余裕を飾る顔は、しかし今はそのかけらもない。ただ色彩の異なる両目は淡々と文字を脳裏に刻み付けることしかしない。我ながら厄介な仕事を引き受けた、という愚痴は吐くのはずっと前にやめていた。
 イーノック=アリングハムの追放か殺害。半ば騙されるようにして引き受けたこの仕事はどう考えても情報職である芳に対して適性のあるものではなかった。なぜ彼は自分を名指ししたのか、と何度も考えた。詐欺まがいの行為をやりこそすれ一度も殺人経験のない、そして一度彼相手に失敗した芳を。
 それでも引き受けたのならやるしかなく、また尻尾を巻いて逃げ出したところで逃げ切れる相手ではない。国際級のシリアルキラーを相手取るのも今回の依頼主に逆らうのも芳にとっては命懸けだ。それなら多少でもリターンのある方を選ぶ、それが芳の選択だった。引き受けた手前渋面は見せなかったものの内心忌々しくて仕方なかった。が、あの依頼主の男に弱味になりかねないことはたとえ表情一つですら見せたくはない。何が自分の足を引っ張るのかわかったものではないからだ。
 張り詰めた空気を裂く様にプライベート用のスマートフォンが芳の思考を遮り部屋に響き渡る。画面に表示された名前に思わず頬を緩ませながら応答すれば今ではすっかり日常の一つになった、それでもまだ聞いていたくなる声が芳の鼓膜を震わせる。

『よお、今仕事してたか?』
「んーん、一段落したとこやわ。ウィリアムは? 珍し電話してくれる言うことはちょっとは制作進んだん?」
『……だ、大体は終わったんだけどよ、リテイクが多くてさ。この俺の作品に文句言うなんてとんでもねえファンに付かれちまったもんだ』

 やれやれと呆れを滲ませるウィリアムの言葉が僅かに揺れたのを、芳は聞き逃しはしなかった。なにか隠し事をしているのは明白で、それが酷く気になる。しかし今はウィリアムのことにまで気を回している余裕がない。現状芳にできるのはただ盲目的に信じるくらいだ。少なくとも声は聞かせてくれるのだから。

「まあ、ちゃんと帰ってきてや? 無理せんと、体に気をつけて」
『わーってるよ。カオルも無理すんなよ?』
「うん、わかっとるよ」
『ほんとかよ。すぐ大怪我して帰ってくるから信じらんねえ』
「失礼な。そない頻繁に怪我しとらんわ」

 軽口の応酬が張り詰めていた神経を緩ませていく。だが胸を掠めた寂しさは間違いなく本当で、けれどもそれを無視して芳は努めて明るい声を出した。ウィリアムが何を考えているのか、今何をしているのかその気になれば探れる。隠し事をされてイラつかないわけではないから、全部暴いて寂しさも不安も消してしまう選択だってある。ただ今は彼の内情を抱えられるだけの余裕がない。それ以上にウィリアム相手にそんなことをしたくなかった。
 通話が終わる。愛しさと寂しさがぜになった顔をしていた芳は、携帯端末を机に置いた次の瞬間には『探偵』の顔になっていた。
 
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 血の匂いが、下水の匂いと混ざって不快感が天井知らずに増していく。慈淵じえんしかめ面をしながらも物音を立てないように神経質に歩を進めた。時々軽い音が響いているのはネズミかそれとも流れているゴミなのかはわからない。ただ進むごとに血の匂いが強くなっていくのは気のせいではない、確信を持ってそう思う。
 ぐに、とつま先で何かを踏む。慈淵自体何度も踏んだことのある感触だ。同時にいっそう強く鉄錆の匂いが鼻先を掠めて、それが肉だと判断する。見ずともわかる、人間の死体だ。最も原型はほとんどとどめていないのだが。

水澄みすみ

 慈淵は背後を幽鬼のようについてきていた男に声をかける。無言で長い髪を揺らしながら水澄はその場でしゃがみこみ死体を持参した袋へ詰めていく。その合間に手元で何かをしているが専門外の慈淵にはそれが何かはわからない。粘度の高い水音が嫌に大きく聞こえた。
 水澄は芸術家である。しかし使う材料は人間の体で、同時に人体と医学に精通しており検死、ひいては死体処理のために慈淵と組まされている。普段は慈淵が殺すので死因がはっきりしている。その為検死はほとんど行われていないのだが、今回は違う。

「どうだ」
「……同じ箇所を、多数回刺されています。指の骨が全て潰れています。皮膚を削いだのでしょうか。肉体の大半は引き裂かれているような……暗くて断定はできませんが、持ち帰り次第調べます」
「おう。とっとと回収してずらかんぞ」

 慈淵の言葉に頷くこともなく水澄が黙々と肉の破片を拾い集める。その様子を暗がりから眺めながら、もう墓に入ることもないんだろうなと、慈淵はなんとなくそんなことを思った。
 

 金の匂いがする。にんまりとくすねた音声データをイヤホンから流しながら庭木にわきは笑う。自分の上司の西郷さいごうがここ最近忙しなく動いており興味はあった。しかし本人に直接聞けば関係ないから首を突っ込むな、と少々強ばった声で突き放されてしまったのだが、そんなことでへこたれるような庭木ではないし気を遣って詮索しない、と言う選択肢は端からない。目は見えなくとも情報を盗む術等いくらでもあるのだ、と盗聴と別口で依頼を出し手に入れた情報を噛み合わせて頭の中で組み立てていく。
 浮かび上がったのは一人の国際指名手配犯だった。海外の人? と思ったがなるほど、彼の首にかかった金額の巨大さに思わず吹き出す。
 たかが一人の男の首にこんなに金を掛けるなんて! あまりにおかしくて一人屋根の上で笑っていたのは記憶に新しい。当然犯罪者の首に掛かった金はこの国の警察が用意したものではない。彼は表でも裏でも非常に危険視されている。
 ただの殺人犯に何を躍起やっきになっているんだか。
 面白可笑しく嗤いながら、それでも胸の奥底は凪いでいた。
 

 淡々と日々は過ぎる。特に期日はないものの滲み出る焦燥しょうそうなだすかせながら芳は髪をくしゃりと掻き上げた。自分で調べるだけでも裏側の人間が忙しなく蠢きイーノック=アリングハムの首を獲るために画策している。それだけなら横取りを狙うのもありか、と思っていたのだがそれと比例するように死体回収業者が忙しなく出回っていた。それだけの数の人間が返り討ちに遭っているということなのだろうと思うと荒事の経験がない芳に付け入る隙はないし、巻き込まれて死ぬ可能性だってある。なんでこの仕事しとんやろ、と現実逃避気味に考えた。しかし今それを考えたところで今更過ぎる上に意味はない。それでもそう考えてしまうのはじりじりと隣にいた死が、いよいよ明確に見えてきたからだ。
 せっつかれてしまったのだ、依頼主に。一体いつまでかかっているのか、それとも奴と内通でも? そう言われて全身が粟立った。元請けと下請け、たったそれだけの関係で庇護下ひごかにいる訳ではない。利用価値が己にあるから生かされているだけでその価値が無ければ生きるのさえままならない。認めたくは無いが芳は限り無く詰みに近い状態だった。国際犯罪者に殺されるか依頼主に殺されるか、たったそれだけの違いしかない。ばっくれたところで依頼主は手段を選ばず中途半端な情報を持った芳を逃がしはしないだろう。
 はあ、と溜息を吐き出した時だ。

「こんにちわァ〜」
「……」

 見上げた窓からぷらん、と呑気に揺れている三つ編みとうさぎの耳に芳は思わず近くにあった小さめの椅子をひっ掴みなんの躊躇いもなく振り下ろした。間の抜けた悲鳴を聞き流しながら逃げ惑う大柄なうさぎに椅子を振り回し続ける。

「ちょ、ちょちょちょ!! 俺! 俺だって!!」
「知っとる」
「知っててその仕打ちィ!? とりあえず落ち付こ、ね? ネッ?」
「煩い」

 標準語ォ!? と叫ぶ庭木に芳は本気で仕留めるつもりで椅子を振り回し続ける。八つ当たりだった。

「ひどい、ひどいわッ! 俺っちはかおっちと一緒にお仕事しよっかなって思っただけなのにッッッ!!」

 ぴたりと芳が振り回していた椅子を止める。鼻先に座面を止められてひぇ、と情けない声を上げている庭木に胡乱げな視線を向けながら椅子を下ろす。いやマジでおっかねえな、とぼやきながら庭木はその椅子を引き寄せて座る。低い所から視線を感じてにわかに顔を顰めた芳に不穏さを感じたのか庭木は先手を打った。

「アリングハムの仕事、させられてんデショ?」
「せやったらなんや」
「やだなァ、ピリピリしないでよォ。一緒にお仕事しよ、って誘ってるだけジャン?」

 前失敗しちゃったんでショ? そう言う庭木の口の端が釣り上がる。チェシャ猫を彷彿させるその笑みが気味が悪いのと同時に庭木が言いたい事が分かって思わず舌打ちしそうになった。それを耐えて芳は努めて平坦な声を出す。

「報酬は」
「そっちの勘定ででいいよォ。いいお仕事してアゲル。なんならボディーガード変わりの殺し屋も紹介したげるよ」
「どうせ慈淵やろ……お前茶々入れに来とんちゃうぞ」
「入れるに決まってんじゃん、こんなお祭り便乗しない手ないし?」

 笑みを浮かべたまま庭木が声を弾ませる。しかし前髪に隠れた目が笑っていないのを芳は知っていた。今度こそ芳は舌打ちする。分かってはいるのだ、一人ではもう限界なんだと言うことを。
 ええいままよと開き直る。ふざけた態度こそ取るが庭木が仕事をしくじった事はない。もし今回ヘマをすれば片付けてしまえばいだけだ。
 その思いを出さないように芳は口元を釣り上げる。

「ええよ。けど途中抜けはさせへん。そないなことした時点で殺すでな?」

 庭木の肩を強く握る。あ、ミスったかもと庭木が思ったが間を空けずに仕事の内容を話し始めた芳にとうとう抜けるとは言い出せなかった。

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 小桃こももが学校を休んだ。彼女を迎えに目的の教室にきた明彦あきひこは小桃の級友にそう言われキョトンとする。そういう割には連絡なかったな、と思い一応メールを送る。連絡を送ったのはそれきりだ。頻繁に送っては気も休まらないだろうと、そう思って。
 そこから一週間が経った。小桃からの連絡はまだない。流石におかしいと思っていた明彦に担任の教師が気まずげに声をかけてきた。生徒指導室に来るように、とのことだった。
 最近喧嘩とかしてねえんだけど、と思いながら呼ばれて入った教室で、疑惑の視線を浴びながら言われた第一声に目を見開いた。

飛鳥井あすかい君と桜森さくらもり君が行方不明だそうだ。藤堂とうどうお前最近彼女達とよく行動していただろう。何をしていた?」

 言葉の意味がわからなかった。言葉として耳には届いていたが内容が理解できなかった。明彦が聞き返したのもほとんど無意識に近い。

「どういう、ことっすか?」
「? お前じゃないのか?」
「だから、どういうことだって聞いてんだよ」

 訝しげな教師達を凝視して、同じことを聞き返す。流石にここで糾弾もできないだろう、と背後で喋っていた数名を無視して生徒指導担当の教師が怒鳴った。

「とぼけるな! 飛鳥井君、桜森君が一週間ほど前から家に帰った形跡がないと言っている! お前が連れ回したんだろう!」
「……いねえんすか? 飛鳥井が……? きさりさんも……? 人違いとかじゃなくて……?」

 その返しがふざけたように聞こえたのだろう、教師の手が乱暴に明彦の胸ぐらをつかむ。唾を飛ばしながらふざけているのか、と怒鳴る。その言葉がまるで一枚、膜が張ったかのようにぼやけて不明瞭で理解できなかった。だが次の言葉に頭を殴られたような衝撃に襲われた。

「お前が彼女達を危険な目に合わせたんじゃないのか!? 言ってみろ!!」

 脳が一瞬で沸騰したかのように熱く赤く染まる。赤く染まったのは視界だけでなく自分の固く握った拳もで、一瞬遅れて自分が何をしたか理解する。
 鼻血を出して倒れた教師も、自分を取り押さえる教師達も他人事のように見ている自分がいて。

「うそだ」

 ただ、消えそうな声でそう呟いた。

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 謹慎一週間。生徒指導の教師の鼻を折った明彦に言われた罰則はそれだった。前科の多い明彦を退学処分しろ、という声も上がっていたそうだが先に明彦を逆上させてしまった教師にも問題はあったと軽くなったのだ。いっそ退学でもさせりゃいいのに、と明彦がぼやいていられたのもその日だけだった。どんどん、息苦しくなるのだ。自室にいても、台所に立っていても、何をしても。
 この家で小桃と過ごした時間は長くはないが、短くもない。気づいたらうちにいるんじゃないか、と明彦を錯覚させてはそれが都合のいい虚妄と知って苦しくなる。
 秋奈あきなしおりが何を話しかけてきたのかわからなかった。鬱陶しいからそろそろ切るかと思っていた髪も最早意識の外だった。小桃がいそうなのにいない部屋で、行方不明だと伝えられた事実だけが残りキリキリと明彦の何かを削っていった。
 

  明彦の限界が来たのは謹慎から五日目だった。
 部屋の掃除をしたのは小桃の痕跡を探しているのが半分、気を紛らわせたいのが半分。憂鬱なまま部屋を掃除していた。
 ふと、ベッドの足元に黒い物が落ちていることに気がついて拾い上げて、息を呑む。
 何の変哲もない黒いヘアゴムだった。明彦だって髪は長い、他人から見れば彼自身のものだと思うだろう。もしくは叔母の秋奈か、あるいは同居人の栞のものだとも。しかし秋奈も栞も髪を結うのにヘアゴムは使わない。明彦は雑だったから自分の髪を輪ゴムで留めてしまうくらいだ。思い当たるのは一人しかいない。
 小桃の、ヘアゴムだった。
 それを理解して、明彦は衝動のままに部屋を飛び出す。途中ですれ違った秋奈が何か叫んでいたが、聞こえない。もしくは聞こえてはいたのだろうが、理解できない。
 そのまま、裸足で家を飛び出した。

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  芳はかなりイラついていた。くだんの仕事の事もあるが同居人がいつまでも帰ってこないからというのが今の所大きい。連絡自体は来るので怪我をしたとか、何かに巻き込まれたとかではなさそうだがとにかく何かと理由をつけて帰ってこようとしない。電話越しの声が不自然なことには気づいていたが、ウィリアムが自分を騙すとは思えないし、そもそも騙されるつもりもない。声は聞けるのに会えないストレスから大きく息を吐きかけて、止まった。
 目の前から猛スピードで見知った白髪が走ってきたのだ。たしか今日は行くと伝えていたはずなのだが、その当人が走ってきて、芳を無視し去っていった。

「……な」

 一瞬呆けた芳は一言声を溢し、そして。

「はぁぁあ!? アキ坊どこいくねん!?」

 陰鬱な気持ちが驚愕で吹き飛んでいく。少年の名前を叫びながら追いかけた。
 
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 街中を走って、裏路地を抜けて、郊外まで行ってようやく止まった明彦の後ろに、息を切らせながら芳が追いついた。なんやねん、と思いながら明彦に目を向ければ靴を履いていない足は随分ボロボロになっているではないか。まだ自分を認識していないだろう明彦に声をかけて、芳はぎょっとする。
 泣きそう、という表現では足りない悲痛さを伴った目がゆるりと芳を見上げる。ぶれていた焦点は芳を見て戻ったが表情は変わらなかった。

「かお、る」
「……あー、足痛ない?」

 内心俺にどないせえ言うねん、と毒付きながら謝礼事項で足の心配をしてみた。が、返事はなく再び明彦は下を向く。こりゃ厄介なことに手出してもうたわ、と苦笑いして明彦の腕を掴んで引っ張る。抵抗はない。

「とりあえず俺んち近いでいこか。裸足で突っ立っとるヤンキーとか通報待ったなしやわ」

 というか俺んちの近くまで走んなや体力バカが、と毒づく芳に、明彦は返事を返さない。なすがままだった。
 

 そのままマンションの一室へと通される。強制的にソファに座らされた明彦の足元に芳がしゃがみこみ、足の甲を無造作に掴んだ。じろりと見られる心地悪さに明彦が目をそらすとぴり、と足に痛みが走る。見れば芳がピンセット片手に何か抜いていた。

「ちょっと痛いでー」
「いや、先に言って……いたっ」
「今言いましたー。というか自分気づかんかったん? ガラスとか木とか、色々刺さっとるでこれ」

 痛い痛いと悲鳴をあげる明彦を無視し芳は容赦なく棘やガラスの破片を引っこ抜いていく。終われば風呂場に連れて行かれさっさと洗い、ぽんとタオルだけ押し付けて明彦を押し込んだ。ドア越しに十分で出てこなガス切るで、と言われて慌てて洗って出てくれば再びソファへと連行された。
 ほい、と渡されたのは冷えたスポーツドリンクだった。また足元に座り込んだ芳がテキパキと包帯を巻いていく。

「んで、何を裸足で走ってたん?」 

 動かす手はそのままに芳が唐突に質問を飛ばした。一瞬息を詰めて返事ができなかった明彦をじろりと見上げて俺今日そっち行くいうたやんけ、と唇を尖らせる。
 明彦が逡巡する。口を開けては閉じて、を繰り返しているのをみながら芳はじっと待つ。やがて明彦が零した話の内容に既視感を抱いて思わず舌打ちをしそうになった。

「……飛鳥井、彼女とその友達が、行方不明になったって、言われた」
「そらまた物騒やなぁ」
「俺が、どっか連れ回したんだろって」
「そないなこと自分できるタマかいな」

 ぽつ、ぽつと喋っていく明彦に相槌を返しながら芳が隣へ腰掛ける。少し離れたところに沈んだ体を一瞥して、視線を下に戻した。

「それが、五日前。んで、今謹慎中」
「あらま。なんやの、センセーでも殴ったん?」
「殴った」
「あーらまーぁ。流石アキ坊、やんちゃやねぇ」

 茶化すように芳はそう言ってあれ、と明彦の足へ向けていた視線を上げる。いつもならうるせえなと言う一言位あってもおかしくはないのに帰ってきたのは沈黙で、なにか地雷でも踏んだのかとまで考えて芳は固まった。
 ぎゅ、と眉間に皺を寄せて床を睨み付けていた。しかしそこに怒りはなく、ただ迷子のように揺蕩う感情がそこにはある。アキ坊、と声を掛ければ一瞬その目が揺れたような気がした。少しの沈黙の後、ぽつりぽつりと明彦が言葉を零す。

「今日までずっと家にいたんだけど、しんどくて」
「なんでなん? ガッコ休めてラッキーちゃうの?」
「飛鳥井が、いる気がするのにいないから」

 吐露された心情が自分の現状と重なり、耐え切れず舌打ちが出た。一瞬びくりと跳ねる明彦を視界にも入れずに芳は手に持ったままの煙草を咥える。火をつける動作をぽかんと見ていた明彦にそこで漸く視線を向け、続きを促す。

「……ずっといたってわけじゃねえんだけど、なんとなく飛鳥井いたな、ってわかるのがしんどくて、さ」
「さよか」
「でも何かしてねえと落ち着かなくて、部屋掃除したら飛鳥井のヘアゴム出てきた。それ見たらなんか、どうしようもなくなっちまって。ここに居たはずなのに、って思ったらじゃあどこにいるんだよ? ってなって……気付いたら家飛び出してた」
「見つかりましたかいな?」

 明彦は無言で力なく首を振る。返事の代わりに芳は煙を吐き出した。紫煙が部屋を漂って消える。そのまま俯いて何も言わなくなった明彦を一瞥して、芳は咥えていた煙草を明彦の口元へ持っていく。ぎょっと顔を跳ね上げた明彦の唇に構わず煙草のフィルターを押し付けた。

「そのままちょびっと、口ン中に溜める感じで吸うてみ」
「お、俺未成年」
「先公ぶん殴ったやつが今更カマトトぶんなや。ほれ」

 一向に離す気配のない芳に目を白黒させながら言われるままに咥え込み、煙を吸う。ほんの少し甘い匂いが鼻をつく。吸ったのを見計らって芳が手を離したのでいいのかな、と思いながら煙草を指に挟み口から離して、吐いてみる。
 不思議な感じがした。悪いことをして落ち着かない、だが大人だけが許された嗜好を行ったと言う優越感に似た、何か。先程までの前が見えないような気分よりずっと良かった。

「……なんか、久々に息した気がする」
「さよか」

 息しとるん見えたほうが落ち着くんやったら吸うとき。
 普段胡散臭く聞こえる声が、やたら優しく聞こえた。

◆━━━━━━◆◆━━━━━━◆ 

 煙草を吸って、更に一週間後。
 明彦は芳の部屋のあるマンションの一室にいた。どうしても帰ると小桃こもも妃里きさりのことを思い出して息苦しいとまた飛び出してしまい、だからといって春彦はるひこ夕雪ゆきに事情を言う訳にいかず、逃げるように芳の部屋の前にきてドアの前に座り込んでしまったのだ。現在、秋奈公認の元芳の保護の元停滞した日々を送っている。
 ある程度は放っておくが、完全放置でもない芳の距離感が居心地がよく、しかしひどく惨めで、性根が濁りそうだった。
 それでも居座ったのは居心地の他にもう一つ。明彦が口走った言葉に芳が反応したからだった。

『いなくなった理由が人間ならいいんだよ! もし、もしそれ以外が理由なら、化け物のせいで居なくなっちまったんなら、どうしようもねぇじゃねえか!』

 そこまで言って、しまったと明彦は口を抑えた。あんな出来事、自分以外の人間が信じられるわけがないのだ。あんな——生きていること自体を侮辱され、精神を陵辱されるような悍ましい出来事は。
 気でも触れたと思われたか、と恐る恐る芳を見た明彦は絶句した。
 顔から血の気が引いて、唇を戦慄かせて、見開いた目は恐怖で染まった、その表情を見て自ずと察してしまったのだ。

 ——ああ、こいつもそうか、と。

 あの恐怖を共有できる相手が居るだけでも、明彦は助かったのだ。そうではないかもしれない、しかしもし、万が一小桃と妃里にそのような目にあっているのではないか、という不安をぶつけられる。そう思っている自分に気付いてとことん惨めだと再認識した。
 今、芳はいない。明彦のいるリビングも、芳の同居人の部屋も空っぽで、しんとと静まり返っている。無音がどうしようもやるせなくて、無造作に取り出した煙草を口に咥えて火をつけて、息をする。

 今日も明彦は、自分が呼吸をしていることを確認しながら、息を吐くのだ。