後
表も裏も行き来するようになって、明彦は今以上の交友関係や協力関係を広げようとは思っていない。普通に生きているふりが出来るだけで、その実やっていることと言えばある種人を貶めるような越権行為だ。そんな自分が、どの面を下げて人と関わっていけるのか? あまつさえ、イーノックを痛め付けて楽しいと心の底から思えてしまえた自分が。
短くなった煙草を地面に落として踏みつける。いつもなら携帯灰皿を持ち歩いているのだが今日はたまたま忘れていて。ひしゃげたそれを無感動に見つめてため息をついた。
今、明彦は新しい人間との接触を望んでいない。ただ一人だけ、表情は乏しい癖に自分の好きなものを隠さず堂々としている彼女だけは取り戻したいと思うのだ。
◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆
突然の来客に芳は戸惑っていた。珍しく芳が休みで明彦が仕事と言う今日という日に秋奈から電話が掛かってきたのは芳が未だ寝ていた時間帯だった。と言っても一般人から言えば十分遅い時間ではあるのだが。
半分寝ていた頭は起きろと愛想なく言い放った秋奈の声で半ば強制的に覚醒させられた。寝起き特有の頭痛を抱えたまま秋奈の話を聞いて別の理由で頭が痛くなったのはつい先ほどの話である。正直な所、明彦を拾った時からこういう事に巻き込まれるのだろうなと薄々予見していた。予見はしていたがこの方向性はあまりに予想外で頬を引きつらせて笑うのが精一杯だ。
ああ、頭が痛い。
その文句をぐっと飲み込んで芳は目の前の客人へ向き直った。
◆━━━━━━◆❃◆━━━━━━◆
「ただい……ま?」
午前で仕事を終わらせ、やることないならもう帰れと西郷に追い出された明彦は玄関先に女性物の靴が揃えられているのを見て首を傾げた。はて、こんな交通に不便なところへ良く来たもんだなと考えながらリビングを覗き込む。
「あ」
まさしく口を『あ』の形に開けて固まった芳と、その手前に座っていた黒髪の女性がこちらを振り向いて固まっている。不思議に思いながら明彦は軽く会釈した。
「どうも」
「あ……お、お邪魔してます」
吃る女性にへーへー俺は怖い顔してますよと内心毒付いて、流れるようにテーブルを見て顔を顰める。
「芳、茶くらい出せよ。お客さんだろこの人」
「へ? あ、わ、忘れとった……用意してくれへん?」
「わーった。珈琲と紅茶、日本茶どれがいいっすか」
「じゃあ、紅茶を」
女性がおずおずとそう行ったのを無言で了承し、明彦はキッチンへと引っ込む。遠くから小声で二人の話す声が聞こえてきたが大方探偵として芳を頼ってきた客なのだろうと内容に聞き耳を立てることはしなかった。お湯を沸かしている間茶葉と芳用に珈琲豆を用意し挽く。秋奈の元から居た習慣が芳の元へ来てもそのまま残ってしまっていたなと考える。その時はまだ小桃が居たと思い出して目を細めた。
暫くして二人分の飲み物と、茶菓子として作り置きしていたシフォンケーキを持ってきた明彦に二人の表情が固くなる。客人の方はともかく、何故芳までつられたように顔がおかしなことになっているんだろう? 多少気になりはしたがこれで自室に引きこもるのでまあいいか、と適当に流す。二人の前に皿とカップを並べた。
「じゃあ、俺はこれで」
「あ、ありがとう、明彦くん」
突然名前を呼ばれて明彦がきょとんと客人を見る。どこか悲しそうに見られている気がして、気まずくて明彦はすっと目を逸らした。
「? 俺、あんたに名前言いましたっけ?」
思った以上に冷えた声が自分の喉から出た、と明彦自身も戸惑いながら言い捨てる。自分の名前を呼んだ彼女の言い方が、どこか小桃に似ていて聞いていて切なくなって、どうしようもない。その声で清水さんに聞きました、と言う返事を聞いて芳を睨めば困惑したような笑みを向けられた。
元々自分は部外者だ、と明彦が立ち上がる。
「そっすか。じゃあ俺はこれで」
「あっ、あっ、明彦! ストップ!」
客人に再び会釈した明彦に芳が大声を出した。芳らしからぬ行動に怪訝そうな、と言うよりは困惑した表情を浮かべて明彦が振り向く。
「なんだよ」
「……あー、そこのお客さんな、お前に用あるねんて。話、聞き?」
ぎこちない笑みを浮かべながら芳は客人に話を振った。振られた客人はあからさまに動揺したようで、凍りついたように明彦を凝視している。
なんなんだ、この二人。
不自然な上酷く居心地の悪い雰囲気に明彦が眉を顰めながら客人に向き直った。
「俺になにか?」
「あの、えっと」
「芳んとこ来たってことは探し物っすか? それとも浮気調査ですかね? 一応俺も所属してる事務所あっからそっちで話を・・・・・・」
「いえ、違うの、依頼じゃなくて」
「? なんですか?」
煮え切らない客人に明彦は僅かに苛立った。どうしてここまで苛立つのかにわかに理解しながらも、女性相手に声を荒げる訳にもいかず、黙って待つしかない。
「突然だけど、明彦くんは年下わんこ系研修医と有能なお医者さんのカップリングに興味はある?」
暫くの沈黙を破って出た言葉に明彦は絶句し芳はソファから落ちた。客人は固まった。
ただ明彦はその言い方があまりに小桃のようで、一瞬目の前の女性を小桃だと勘違いした。ただ、どう見たって目の前の女性は成人で、小桃とはまるで別人だ。ああ、重症だなぁと内心苦笑してそれでも対応しないと、と半ばうんざりしながら口を開く。
「彼女が好きな奴です。俺自身は興味ないですね」
「そ、そう……彼女さんとは、趣味が合いそうね」
自分で言ったくせにしどろもどろする女性を見ながら飛鳥井はどこにいるんだろう、とアンニュイになった明彦はそのままのトーンで呟いた。
「アンタも、腐女子か」
「ごふっ」
テンションと内容が噛み合っていない一言で椅子に座り直して珈琲を口に含んでいた芳が噴き出す。噎せながらも笑うことを止めない芳に女性へ向けられない苛立ちを台拭きに込めて全力で顔面に叩きつける。大きなため息を付き、明彦は立ち上がった。
「もういいっすか? 仕事の話でもないみたいだし。時間、お互い無駄でしょ」
「そうね……ごめん、なさい」
「別に」
いい、と続けようとした明彦の後頭部に軽い衝撃が襲う。なんだ、と振り向けばスリッパを片手に笑いの淵から這い上がってきたらしい芳が仁王立ちしていた。手にしたそれで叩かれた、と理解して明彦が文句を言いかけたところで芳が叫んだ。
「そうちゃうやろ!!! 人の話ちゃんと最後まで聞き!!!」
「? いや、腐女子の話とか興味ねえ……」
明彦の反論を無視した芳が凄まじい剣幕で女性を見る。その勢いに明彦は呆気に取られ女性は身を竦ませた。
「アンタも何口走っとん!! 小桃ちゃんもハッキリ言わなわからんぞ!! このバカ底抜けにバカで鈍感でバカで空気読めへんバカなんわかっとるやろ!!」
明彦への暴言の合間にとんでもない事を口走った。空気が一瞬で凍りつく。明彦がは? と息の抜けたような声を出し、芳はしまった、と顔を強ばらせる。小桃と呼ばれた女性は目が泳いでいた。
「……どういうことだ」
やがて明彦が地を這う様な低い声で一言絞り出した。ぎょろりと芳を睨み上げた目はいつぞやの犯罪者を見たときのように爛々としていた。今にも飛び掛かってきそうな明彦の圧力に寸での所で悲鳴を飲み込んだ芳は両手を上げながら女性に視線を送る。
「私から説明するわ、明彦くん。色々あって、見た目は変わってしまったのだけど私は、飛鳥井小桃よ」
強ばった声音が告げる事実に、明彦の理解が追いつかない。芳を殴ろうと握り締めていた手が解けてぎこちなくその女性へ視線を向ける。
理由を話す彼女を見る。どう見ても小桃の容姿ではない。自分が知るものかけ離れていて、芳と二人で自分をからかっているのかとも思った。しかし女性の向けてくる目が余りに真剣だった。『嘘ちゃうと思うで。そういうことができる奴がおる事、俺等もよう知っとるやろ』と芳も言う。そこにからかいの色は無い。
「飛鳥井なのか? 本当に?」
間の抜けた顔で女性を見る。その顔を見た女性が手を伸ばしてくしゃりと顔を歪めながら明彦の頭を撫でた。
「なんだか久々に見たわ、明彦くんのその顔」
たまに、子犬みたいな顔をするわよね。そう言いながら動く手に明彦は覚えがあった。ありすぎた。忘れるわけがない。だって、自分はこうやって撫でられるのが好きだった。
飛鳥井だ、本当に。
そう思った瞬間明彦は女性を、小桃を抱きしめた。言いたいことも聞きたいことも山ほどある。しかしこぼれた嗚咽が、目尻からぼろりと溢れた水滴がその言葉を全部塞いで、口から出るのは子供のようなしゃくり上げる音だけだ。
骨が軋むほどの力で抱きしめられて、小桃はそれでも止めなかった。代わりに頭を撫でていた腕を明彦の首に回して、力いっぱい抱きしめ返す。
そんな二人を芳は見ながら小さく笑って、静かに自分のカップをもってリビングから出て行った。
泣きじゃくりながら、明彦は小桃の顔を覗き込む。
黒い髪、黄色い目。成人女性の身体。全部知っている飛鳥井小桃ではない。
「ただいま、明彦くん」
それでも手つきが、涙ぐむ目が、自分の名前の呼び方が。全部、明彦の知っている飛鳥井小桃だった。
「おかえり、飛鳥井」
こつ、と小桃の額に自分の額を合わせて明彦は、なんとかそれだけ告げた。
ぽかりと空いた空白が、新しく形を変えて埋まっていく。聞きたいことも、言いたいことも、伝えたいこともある。
しかし今はこの温もりを手放したくはないと、明彦は今までの隙間を埋めるように抱きしめた。
Reverse 完