欠落
ふたりの子供に名前はなかった。彼らはただ無力なまま寄り添って、お互いが何者かなんて知らないまま共にあった。名前も何も持っていなくて、けれども何者かもわからないお互いだけを持っていた。
*
「待てクソガキが!!」
そんな怒声を背中に受けながら、少年は息を切らして人ごみを駆け抜ける。するりと器用に隙間を縫って、時には物を蹴飛ばし地面へ転がす。そうやって自分よりも巨大な存在を撒いて、薄暗い路地裏へと逃げ込んだ。それでもまだ気は抜けない。”おとな”という生き物は時々徒党を組んで自分たちが生きている場所にまで侵略してくるのだ。その時に自分は彼女が立てた作戦の通りすぐに動かなくてはいけない。少年の頭にあったのはそれだった。まだ、まだだ。安心するな、休もうとするな。痛む足に奥歯を噛んでやり過ごし、すぐに逃げられるように身構える。
そうして聞こえてきた声は、この世界で唯一安心できる少女のものだった。
「にいさん!」
ひょこり、朽ちかけた無人の住宅の壁から顔をのぞかせる。少年をそう呼びながら手招きする彼女の方へ四つん這いになり、這いよる。穴をくぐれば埃が舞って思わずくしゃみをした。背後で穴を塞いでいた少女がもうだいじょうぶ、と言いながら少年の鼻を拭く。そうしてやっと少年はほっと息をついて全身を脱力させるのだ。
「ただいま、いもうと」
「おかえり、にいさん。きょうはなにがあるの?」
「これ。いもうとすきでしょ?」
そう言って盗んだパンとりんごを一つずつ渡す。やったぁ、と彼女が喜んでくれてそれだけでも今日の”しごと”が成功して良かったと安堵する。
そんな少年の前で、少女はパンを半分ちぎって手渡してきた。このやりとりはいつものことで、自分は彼女の”にいさん”なのだからと断っても彼女は全く聞いちゃくれない。”いもうと”はとても小さくて、自分のようには動けないから、大きくなるためにたくさん食べなくちゃいけないのに。それでも彼女は、”いもうと”は自分の食い扶持を少年に渡すのだ。
頑固な少女に根負けして、少年はパンを受け取った。腹は減っている。間違いなく。それでも妹のために取ってきたんだから、自分は我慢できるのだから全部食べてもいいのに。それを何度も伝えたけれど、絶対に聞いてくれない。そのことに関して少年は諦めていた。
そんな彼のこと等知らない彼女は、もちゃもちゃと口を動かした。口の周りのパンくずをとってやればうへぇ、と抜けた声を出す。おもしろいなぁ、と思った。
「そろそろね、ちがうばしょいこうとおもってるんだ」
「ふぅん。いついくの?」
「あした。おおきな……くるま?っていうのがたくさんあった。あれにかくれてのっかって、つぎのとこいく」
「じゃああしたはやおきするの?」
「ううん、よふかしする」
「わかった」
今まで盗んで集めた食べ物をぼろぼろの布で包み、二人で身を寄せ合って廃屋の隅へ隠れるように眠る。
それが少年と少女の日常だ。盗んで食って、殴って殴られて、逃げて、逃げて、隠れて眠る。そんな毎日。
*
血が滴る。自分の鼻から垂れたそれを見てあー、と抜けた声を出した。
ヘマをした。ただそれだけだ。この街で盗みを繰り返していれば当然警戒だってされる。私服の警察相手にスリを仕掛け、バレて腕を掴まれた際咄嗟に振り払ってしまい、殴られてしまった。
「イクス」
「あー、ごめんエクス。下手打った」
「……警察には手出すな、って僕言ったよな?見分けのつけ方も教えたはずだったんだけど?」
「だからごめんって……思ったより乱暴だったんだよあいつ」
そう言えばかつて少女だった、『エクス』となった彼女ははぁ、とため息を付いた。呆れながらも手は動いて、少年だった『イクス』の手当をする。
「包帯だって少ないんだから気をつけなよ」
「反省してるってば」
「なら次は気をつけろよな。そのせいでこの街から逃げる日程早めなきゃいけなくなった」
「……いつ?」
「今晩。動けるんだったら今からでもいい」
「わかった、行こうか」
それだけ短く返して、イクスは立ち上がる。休まなくていいの? というエクスの言葉に軽く手をあげて無言を返し、詰めれるだけの物資を詰め込んでいく。
一体、何度繰り返したのだろう。
盗んで食って、殴って殴られて、逃げて、逃げて、隠れて眠る。隠れられすらできなくなれば街から街へ移っては、同じことを繰り返す。バカの一つ覚えのように何度も、何十回も、何百回だって繰り返した。
(……潮時って、やつかな)
いもうとに気づかれないようにそっと息をつく。だって、そんなことをしているうちに、イクスの身体は”おとな”に近づいていく。対してエクスの身体はまだ”こども”のまま小さくて、弱いままだ。
——同じことを繰り返すうちに、イクスは気づいたことがある。それは”おとな”が”こども”を守る”かぞく”というものがあること。普通の”こども”は盗まなくたって食べ物にありつけて、隠れなくても休めること。そうした”こども”は、やがて大きくなって”おとな”になること。
だから、ずっと”こども”のままのエクスはおかしいのだ。自分と同じように過ごしていて、彼女だけがそのままで、自分だけが”おとな”になっていく。
イクスはそれが嫌だった。ずっと一緒にいたのに。これからも一緒のはずなのに。彼女と自分が離れていくようでどうしようもなく嫌だった。正直この生活が嫌なわけではない。安心はできない、食いっぱぐれる、殴られる。それでもエクスと、いもうとと一緒にいられるこの日常がイクスは嫌いになれなかった。
でも、もしそれがエクスが大きくなれない原因なら? そう思うと怖かった。大きくなれなかった”こども”の末路は何度だって見てきたから。くったりと手足を投げ出して、開けた口から舌が出て。白く濁った目が空を仰ぐ。そうして動かないまま白い虫に身体を食われて、黒くとけて、骨だけになっていくのをイクスもエクスも見た。何度も見た。
それを「死」と呼ぶことを知ったのは、初めて死んだ”こども”を見たときだ。汚いな、死ぬならもっと遠くで死んでりゃ良かったのに。死んだ”こども”を乱雑に掴んだ”おとな”が引きずりながらそんなことを言うのを聞いていた。
ああなって欲しくない。エクスには「普通」でいてほしい。「死」になんてなって欲しくない。
だから、次の街でエクスを「普通」にしないと。イクスの頭にはそればかりだった。
*
轟音。悲鳴。銃声。耳障りなそれと一緒に焦げ臭さと鉄錆の匂いが鼻を突く。
(くそ、なんでこうなるんだよ!)
イクスは背中にエクスを背負って走っていた。場は騒然、なんてものじゃない。混乱の渦中にあった。こんなのは知らない。ただ、飛んできた何かに当たった人は全員身体が弾けて「死」になった。”おとな”も”こども”も、関係なく。違ったのは、黒じゃなくて赤くなった。ただそれだけだ。
(何も今じゃなくても、良かったのに!)
ここでエクスを「普通」にしたかったのに。「普通」が何かわからないままだったけれども、小さなままのいもうとが大きくなって、自分と同じになってくれたらそれだけで良かったのに。着いたときは人も多くて、もしかしたらエクスと一緒にいてくれる”おとな”が見つかりそうだなんて期待して。隠れる場所を捜す彼女を尻目に、「普通」にみえる”おとな”を探していた。間違いなく浮足立っていた。彼女と離れるのは寂しいけれど、それでも「死」になってしまうより全然よかった。一緒にいる”おとな”を見つけて、エクスを大きくして、彼女が”おとな”になってからまた一緒に過ごそうって、そう言いたかったのに。
イクスは無我夢中で走った。エクスが時々「イクスこっち!」という声だけがクリアに聞こえる。その声の通りに駆け抜ける。
大丈夫、大丈夫。エクスがそう言うなら自分たちは「死」にならない。だから、彼女の声だけ聞こえていればいい。その思いだけが頭を占めて、身体を動かした。全てを押しのけて蹴落として。いもうとだけはと思って走る。
走り続けた。靴底が剥がれた気がする。足から変な音がした。けれども構わず走る。
そうして逃げていた時だった。
「ぁ゙」
濁った音がした。おかしい、こんな音は聞いたことがない。それに今、いもうとの、エクスの声だけしかしないはずな の に。
ずるりと小さな身体がずり落ちた。小さな手が、力なく、けれども縋るようにイクスの背中を撫でる。彼女の黒髪と、その下から赤が飲み込むように広がった。びくん、びくんと大きく跳ねる。目の前には黒い筒にに刃物を取り付けたようなものを向けた、無機質な格好をした人間がいた。イクスも相手も動けなかった。唯一揺れて動いていたエクスの身体も、やがて止まった。
エクスが「死」になった。
その瞬間、イクスは、「俺」は。
*
ばち、と目を見開いた。ここ最近でやっと見慣れてきた天井に深く息をついてエクスは上体を起こす。
「……にっき」
誰にいうでもなく呟いて、ふらふらと備え付けのテーブルへ近づいて、出しっぱなしにしていた冊子を雑に広げる。字を書く、という行動にようやく手が追いついてきた身としては、長文を書くのは苦痛以外の何物でもなかった。
あの後、何が起きたのかイクスは覚えていない。ただ大男に手を出して返り討ちに合い、軍という場所に連れてこられた。目つきの鋭い高齢の女には「また厄介なのが来たね」と睨まれた。よくわからないまま言われたことをやっているうちに、自分が軍人になっていることを伝えられた。なんで、という呟きはあのふたりに届いたかはわからない。
そのための勉強をして、訓練をして、飯を食って寝る。時々最近はどうだと聞かれるが、何も変わらないからいつも通りだと伝える。
『記憶が飛んでるのは、そのうち寝てりゃ夢に出る。取り敢えず寝て、見た夢をこいつに書き込みな。頭ってのは寝てる間に記憶を整頓するし、忘れてたことも夢として出てくることもある。まあ百パーセント正しい訳じゃないけどねえ、やらないよりはマシさ。ま、無駄だったとしても文字書く練習にもなる』
そう言って渡されたのが、今目の前にある冊子だ。ページはそこまで進んでいない。見た夢がまだ少ないのだ、仕方ない。
無言で手を動かす。ペン先が紙を引っ掻く音だけが響いている。そうして書き終わってから、途端イクスは全てバカらしくなった。
(……書いたところで、なんになるんだ。こんなもの)
誰も見られていないことをいいことに、ペンも冊子も乱暴に机の上に投げ捨てる。床にペンが落ちたが知ったことじゃない。はぁ、とため息を付きながら片手の甲で目元を覆う。
自分たちの人生がおかしくて、おかしいまま妹が死んだ。それだけは間違いない。現に彼女はここにいない。その事実を夢に見て、紙に書き出して、頭が事実だと真っ向から認めてしまって暴れたいような、脱力して何もしたくないようなそんな気持ちになる。全部否定して、今ここにいる事自体も突っぱねてしまいたくなった。
けれども事実は覆らないし、イクスはおかしいまま生きてしまっている。死ぬという選択肢はない。ただ、面倒臭い。心の底からそう思うだけで。面倒だから、あの人たちの言うことだけ聞いて、適当に生きてしまってもいいだろうとすら思っている。
ああ、でも。
(エクスに、あいたいなぁ。もういないのに)
全てを他人に丸投げしても、胸の奥が空っぽになってしまったようなそんな気持ちは誰も持って行ってはくれなかった。