雪溶け

大祓の後、死後の世界から戻ってきて数日。片付けを申し出てくれた錦玉に断っていた杏仁はようやく閻魔の部屋を片付けようと動いていた。

ほんの少しだけいたアガチだけの魂安らぐ場所で私の部屋のことは任せるとこっそりいわれていたことでもあり、一人で片付けたかったのだ。最後に任せてくれたことだから。
最後の最後まで人任せだなぁ、なんて悪態をつきつつ任せてもらえることがうれしくて「    」。

「これが資産関連で、こっちが……通帳? うわっ、何この金額……こわ……」

見たこともない金額に思わず通帳を放り出しながら、手続きが必要なもの、そうでないもの。捨てていいもの、杏仁が引き継ぎたいものを分けていく。と、いいつつも彼女は酒以外は基本的にあまりものを持ちたがらなかったのだろう。目につくものはアクセサリー数点と、書類だけだ。服はサイズが壊滅的に間に合わないので泣く泣く売却用の段ボールに詰める。

(ノーチラス関連の書類はデータ化して荒城さんに任せよう。私が持ってていいものじゃないし、持っていたくないし……経営関係は、雲平さんが持って行ってくれたかな? 残ってたらまとめて渡そう)

必死に目の前のことを処理する為に頭を使う。あの日以来、物忘れをしたりすることも増えた。咄嗟に思い出せないことだって。けれども、それが普通で、脳がすべてを覚え込むなんて状況がおかしいことだったのだ。早く慣れなくては、と思う反面思い出せないという事象に足がすくむ。

また私は何か忘れてしまったのだろうか?

血の気が引きかけて、思い出す。それを何度か繰り返していて、ほんの少しだけ杏仁は疲弊していた。それを受け流すために、あるいはこみ上げてきそうな何かを無視するために目の前のことを事務的にこなす。

「ああ、そうだ。部屋の解約もしなきゃ。賃貸の書類は……ん?」

必要な書類を探していると、資料の下から分厚い冊子が出てきた。固い表紙にかなり大判だ。そして、物凄く思い。冊子とは言ったが、横から見る分に一ページが非常に分厚い。捲るのに苦労しそうな、不思議な冊子だ。
少し逡巡して、杏仁は思い切ってそれを開いた。目を見開く。

アルバムだった。多数納められた写真は一人の人間の、赤ん坊から子供、そして一番見覚えのある姿になるまでが年代順に納められていた。なぜそれが年代順で、一人の人間だと杏仁がわかったか。それは閻魔が普段の振る舞いからはわからないほど几帳面に記して一緒に挟んでいたから。

『美銀 推定ゼロ歳 2/2』

こんなメモが、写真と共に挟まっていたから。
思わず息をのむ。片付けのことも忘れて杏仁はページを捲っていく。

『美銀 推定二歳 私をえんみゃと呼んだ。ヨスガに思わず連絡を入れた。』
『美銀 推定四歳 よく動き回る。子供とはものすごく体力があるものだ。動き回って捕まえるのも一苦労する。悪くはない』
『美銀 あまりに動き回るので、危険が及ぶ前に行動を制限しよう。着物を着せてみた。少し捕まえやすくなった』
『美銀 推定六歳 この子は覚えが早い。好奇心がすごく強いようだ。教えたそばから自分の知識にしていく。次は何を教えるべきか』
『好き嫌いが出てきたらしい。私の選ぶものをいや!というようになってきた。少し傷つく』
『美銀 推定八歳 一番興味があるのは料理らしい。この子が好きなことをのびのびとできる場所を作ってあげようと思った。』
『香華先生の所のご子息に合わせてみた。楽しそうに遊んでいるようだ、喧嘩しないようで安心した』

美銀 美銀 美銀
たくさんのメモが、杏仁の名前を呼んでいた。その隣には思い出や愚痴、そして愛を添えて。十年前の大祓のことも書いてあった。『アガチにしてしまったこの子に、二週間しか記憶を残せないこの子に、少しでも幸せを』。呪いのような誓いだった。

ぱたん、ぱたん。頁を捲る少しだけ重い音が静まり返った部屋に響く。ひたすら杏仁の写真が収められていて、忘れて取り戻せなかった幼少を食い入るように見進める。

ぱたり、ぱたり。頁をめくる音とは違う、軽い音が主を失った部屋に響く。

「ッ、ぁ」

引き攣った音が、杏仁の口から零れた。それは決壊の始まりで、濁流の始まりで。

「あ、ああ、あ……!」

膝から崩れ落ちた。ぎゅう、とアルバムを抱きしめる。床に涙が落ちていく音がして、視界ずっと揺らいでいる。

「お、かあ、さん……ッ!おかあさん……!」

杏仁が意味を持つ言葉を発して。そして。

「ぅ、わあぁぁああああああ、ッ!!あ、あっ、ぐぅ……ッ!ひ、ぐ、ぁ、ア……あ……わあああああッ!!」

大声をあげて、悲鳴をあげて、泣いた。

*

全部、涙は出し切ったはずなのだ。
最初は愛してくれていたことへの感謝で。
次は好きな人と、その家族と戻ってこれた安堵に。
最後は約束をした人にただいまを言えた嬉しさに。
自分は十分泣いた。嬉しい涙をたくさんもらった。

じゃあ、この涙は。これは。

その気持ちにそっぽを向くなと涙が言う。
ここなら誰も聞いちゃいない。誰にも気づかせない。だから。
ただ一つの、わがままを。

(さみしい。もっといっしょに、いたかった。一緒に、生きたかった)

それはもう、かなわないのだけども。

蹲って、泣き叫ぶ。喉が裂けるまで、目が熱を持って開けてられなくなるまで。
寂しさが溶けるまで、泣いて。