それは『  』とはよく言ったものだと、嘲笑った。

「——では、以上の内容でのご契約でよろしかったでしょうか?」
「ああ……はい。それでお願いします」
「畏まりました。それではこちらにお名前を……」

 そうやって自分に向けて話す受付の言葉を、漓人は何処か他人事のように聞きながら名前を書く。
『水銀 漓人』サイン欄へと雑にペンを走らせた。

*

 安心院の館が崩壊した日。シュブ=ニグラスを還した日。各々が身を寄せる場所を決めて動いたその日に漓人は誰にも何も言わずに黙ってその場を去った。鬼のようにかかってくる電話やメッセージを完全に無視して携帯を解約し、行方不明者届の不受理の届出を出す。浅い付き合いだった友人たちとは全て切って、銀行の貸金庫から溜め込んでいた金を全部引っ張り出して自分が師と仰ぐ人の家へと転がり込んだ。彼女は驚いていたが快く(果たして転がり込んだその日から事情も聞かずにこき使い始めるのを快くと行っていいものかは甚だ疑問だが)迎え入れて貰う。簡単に事情を伝えて、師の旧姓を借りて分籍手続きを行った。
 我ながら、驚く程スムーズに言ったもんだ。新しい口座を作りながらも漓人は世の中の利便さに舌を巻く。といっても驚いているのは百年前の自分であり、今の自分ではないのだが。
 時々、自分の中で感覚の分離が起きている気がして酷く気持ちが悪かった。

*

 そこからの生活はまあ、これまでと比べれば『質素』といっても過言ではなかった。女も酒も煙草もない。そもそも師の工房と適当に借りたワンルームの間を行ったり来たりしているだけだ。工房で学び、修行し、扱き使われてふらふらしながら仮住まいに戻る。戻った後も特に休まず、これまた適当にかったノートパソコン相手にひたすら文字を、音を打ち込んで物語を、曲を作り出していた。かと思えばひたすらスケッチしていることもあれば巷で流行っているハンドメイドのジャンルに手を出してはひたすら何かを作り続けていた。
 傍目から見れば異常だった。日中は一応社会人、あるいは職人見習いという立場で働いているにも関わらず、帰宅してからは寝食を削ってひたすら何かを作り続けている。一つのジャンルに固執せず、ひたすら物を作っては、身体の方が先に限界を迎えて意識を落とす。

 機械のようだった。物を作り出すためだけの。機械とは違って人間の肉体なのだからすぐに不調を来たす。そうなったら少しだけ意識を落として起きたらまた作り始めて。手狭なワンルームはすぐにもので溢れかえった。その度に漓人は無感動にそれをゴミ袋へ放り込むのだ。

 そんな生活を繰り返していれば人間の身体はレッドカードを出すに決まっている。工房で熱を出して倒れた。意識が途切れる前に見えた師の顔がなんだかおもしれえな。なんて他人事のように考えて暗転する。

*

 目が覚めた時には自分の仮住まいにいた。いた、というより師の夫がここまで運んだらしい。枕元で師がぶつくさ文句を言っていた。が、どうにも音が遠くに聞こえてうまく聞き取れない。まあいいや、作らなきゃ。目が覚めたなら作らなきゃ。熱に茹だって鈍痛を響かせる頭を無視して起き上がる。

 「おい漓人、起きるんじゃねえよ。もうちょい寝てろ」
 「い、い。おきた、から」
 「体調管理もできねえガキかてめえは。いいから寝ろ、そんな状態で何しようってんだ」
 「つくら、なきゃ。アリス、を」
 
「つくらなきゃ。そうだ、作らなきゃ。アリスを世界で一番幸せな女の子にすると言ったのだ。なら作らなきゃいけない。自分は、ぼくは、俺は、私は。歪めて空想に返してしまった。幸せが何か教えてあげる前に、俺の都合でつっかえしちまった。なら、今度は。今度こそは。今度こそ、誰にも、自分にも否定されないように」

 そう繰り返しながら作業机に向かう漓人の目は何処も見ていなかった。疲労で削げた頬に影が差し、そのくせ何処も見ちゃいない目だけが異様に輝いている。見る角度で淦にも金にも見える目が、今はどこか濁って見えた。
 師が、ため息を一つつく。そうして椅子の背もたれに手をかけた漓人の胸倉を掴んで——

「寝ろつってんだろうがクソガキが!!」
「へ?——ぐ、ぇッ!?」

 ベッドめがけて背負い投げをした。
 奇声を発しながら文字通り寝台へ沈んだ漓人の前に仁王立ちし睥睨する。

「おとなしくしてろボケが!!動いてないと死ぬんか!?マグロかてめぇ!!」
「う、うるさ……」
「師匠に向かってうるさいとはなんだァこの木偶の坊!!座薬突っ込んでやろうかコラァ!!4児の母なめんじゃねえぞ!!」
「母は……関係なくねえか……?」
「返事は!!ハイだろうが!!」
「ア゛ッ!!い、痛い痛い痛い!!はい、はいわかりました!!」

 うつ伏せで微動だにできない漓人へ問答無用でのしかかり、上体を逸らせるように首を絞める。いわゆるキャメルクラッチを容赦なく浴びせて、師は言う。

「作り手がそんなんでどうするよ?あたしらの作品はあたしらの子なんだって前教えたろうが。親がそんなんで、どう示しつけるってんだい」
「……でも、おれ」

 思わず、言い淀む。旧姓をもらうために、他言無用と伝えた上で事情は話した。だが、どれだけそれが真実であっても、当事者ではないものにそれが真に伝わることなんてない。ましてや自分が昔の人間であり、今回の件の全ての元凶だなどとは到底信用なんてされないに決まっている。
その様子に、絞め技から解放しベッド脇へ移動していた師は、またため息をついて漓人に手を伸ばした。殴られる、と思わず身構える。しかし届いた衝撃は想像よりもずっと優しいものだった。
ぽん、と頭に小さくて固い手のひらが乗せられる。

「荒唐無稽な話だったよ。あんたの話は。でもね、あたしが信じるのはその話じゃなくてあんたのことさね」
「……」
「話の内容より、あんたの真摯さを信じる。悪ぶっちゃいるけどね、あんたはちゃんと優しくて真面目な子だ。一年半か……少しの間とは言え、あんたが生み出した子を見てきたんだ。人間性なんてね、そっから嫌でも見えるんだよ」
「……うそだ。だって、おれ。俺は、私は……自分の作品で、人を殺した、のに」
「はっ、信じるかは好きにしな。あたしがどう思おうが、あんたに投げかけた時点でそれはもう、あたしだけの言葉じゃない。だから解釈もなんでも好きにすりゃあいい。これからのこともね。あたしが責任取るのは漓人、あんたをジュエリー作家にしたことだけさ。今後の人生は、自分で決めるんだ」

 まるで突き放しているようにも聞こえる言葉だった。以前の、百年前の自分なら少なくともそう受け取った。けれども、今は違った。そう受け取るには、声が、表情が、手のひらがあまりにも優しすぎる。

 お前はまだ、作家でいいんだと認められたような気がした。

 都合がよすぎる、現金すぎる。そんな言葉が頭を過ぎるより先に視界が滲んで、熱で紅潮した頬を冷やしながら滑り落ちていく。
 涙と一緒に、また願望が、不安が、本心が、弱音が、口から零れていく。

「せんせ、おれ、まだ、ものつくっても、いい?」
「……ああ」
「あくせいがい、も。ものがたりも、うたも、えも、ぜんぶ。ぜんぶつくってて、いい?すき、なんだ。アリスのことが、なくても。何かをつくるのが。おれがかんがえたものが、かたちになるのが、すきなんだ」
「いいね、素敵なことじゃあないか」
「じゃあ、おれがやったことは、だれに、あやまったら、いい?おれのせいじゃ、ないって、いうひとも、いて、でも、そのひとたちは、きずついてて、それで、おれ、おれは」
「そういう時は、ごめんなさいよりありがとうにしときな。それでも足りねえなら、その人たちが困ったとき死ぬ気で助けてやれ。男だろ、仁義通しな」

 まるで脈絡のない会話だ。特に意味などない会話だ。けれども、漓人はそれが欲しかったのだ。

 安心院家と縁を切る、あの場にいた人間全員の目の前から消えると決めて、そのための行動をしている間、ぶちぶちと何かを引きちぎるような音がずっと頭の中にこだましていた。そのたびにずっとどこかが痛いままで、でもそれを口に出してはいけないのだと、自分のやるべきことは痛みを抱えてうずくまることじゃないのだと、強迫観念にも似たそれに追い回されていた。極論、自業自得なのだ。だから、痛いというのは許されるべきではないのだと思っていた。自分がこうしたいと口に出すのも、そもそも生きていることさえも、許されるべきではないのだとも、思っていた。

 嗚咽が止まらない。しゃくりあげて、咳き込んで、それでも話すのをやめない漓人を師は止めなかった。泣き疲れて眠る迄、本当に意味のない会話をしていた。

*

漓人が眠っているのを見ながら師は室内を見渡した。視線の先には存外丁寧に分別されているゴミ袋が小さくまとめられている。
それを見て驚いたものだった。中身は様々な作品だった。アクセサリーはもちろん、書き殴られた物語のメモ、歌詞の一部、デッサン画から色鉛筆のみで描かれた風景画。側から見ればポートフォリオにまとめても問題ないようなクオリティの作品たちだ。けれども彼自身はそれをゴミとして捨てている。

(こりゃあ、あたしには荷が重いね)

自分が生み出したものをゴミだと捨てれる。それは漓人の自己肯定感が、周りが見るより遥かに低い事の証明にほかならない。
同時に、先程ふと思いつきで聞いて帰ってきた返事も思い出す。

『あんた、作家としては本名でやってくのかい?つっても、姓はあたしの実家のだけど』
『みつけてほしくない、から……たんぽぽに、する。どっかにいっても、幸せでいてほしいから。ダンデ、って』

不調特有のおかしな言葉遣いでそういった時の、目の前の子供が本当にどこかへ行ってしまいそうな程不安定だった。これはいよいよ重症だ、と師は苦笑する。

「本当に手間のかかる馬鹿弟子さね」

だからといって、自分にできることはもう無いけれども。ここから先は、漓人次第なのだから。

久しぶりに夢を見た。愛した金髪が軽く揺れる。空色が細められて自分を見上げる。その感情は、読めない。

『本当に、馬鹿な人』

それがどこか柔らかく聞こえたのは、きっと気のせいなのだろう。