探索者のわやわや。ネタバレ等はありません。
金の星、灰の猫
「……」
ニコルは唖然としながら目の前のイギリス人の女を見ていた。凄い勢いで消えていくスイーツ。文字通り山を成していたそれを口に入れては美味しそうに咀嚼する様子に最早吐き気さえ覚えている。ニコルの手にしていたサンドイッチは幾分か前に食べることを放棄されていた。
『? ニコル、食べないの?』
『アンタが食べてるの見てたらもういいってなっちまったんだよ、ベアトリーチェ』
言いたいことは万も億もあるが、何とか抑えてそれだけ返事する。目の前のイギリス女改めベアトリーチェはじゃあ私にくださいと、ニコルが話すのとは異なる英語でそう答えた。
*
ニコルが日本へ入国し方々を回っていた時のことだった。道に迷ったニコルは目の前に薄汚れた金色の布を拾った。拾った、というかついてきたと言うべきだとはニコル談ではあるのだが、どうも拾われた側はそうは思っていないらしい。
小汚い布は、ベアトリーチェと名乗った。うっすらと黄色み掛かった、白にすら見える淡い波打つ髪を豪快に絡ませて鳥の巣を作っていたのを苦心しながら解いてやれば目の前の女はすぐにニコルに懐いた。財布を落として行き倒れていた彼女にこれっきりだと食事を奢ったのだが、その後は何をしてもついてきていた。何度か本気で撒いたにも関わらず気付けばニコルの行く先々に彼女の頭がひょっこり現れる。その度ニコルは肝を冷やしていた。
当然何か目的があるのか、と問い詰めたこともある。ニコルは住んでいた場所が場所だけに用心深かった。しかし疑われているベアトリーチェと言えば本当に何も企んでおらず、おそらく自分以外の外国人が珍しく、また助けてもらったからと言う理由で付いて回っているだけらしい。疑うだけ無駄だ、とニコルは色々諦めた。
『あ!ニコル見て、カエル!日本のカエルは小さくてかわいいわ!』
『へーへー、そうかい。腹の足しになら無さそうだな』
『食べない!なんてこと言うの!』
あちこちで見るなんの変哲もないものに一々騒ぐベアトリーチェをニコルが適当にあしらう。そうしただけベアトリーチェがうるさくなるもんだからいよいよニコルもムキになって言い返す。ベアトリーチェは楽しそうにそれに乗る。疲れてしまう結果は不本意にも一緒に過ごした数日で分かっているのに相手をするあたしもあたしだな、とニコルは自分にため息をついた。
*
ニコルがぱ、と目を開けたのはほとんどの建物から光が消えた夜更けだった。山奥に借りたコテージの中を何かを物色しているような音が響く。物盗りか、と警戒しながら横目で見るとベアトリーチェが自分の荷物を漁っていた。ニコルのカバンならば取り押さえてやるつもりだったがそうじゃない。
ならこんな夜更けにこいつは何を?気になったら暴かずにはいられない。
『何やってんだ、こんな夜中に』
『あ、起きちゃった?』
むくりと体を起こしたニコルに特に驚くこともなく、ベアトリーチェはごめんごめんと小さく手を合わせた。そんなことどうでもいいよと言い捨てて、視線で質問の続きを促せばベアトリーチェはくふくふと小さく笑って手にしたものを見せつける。
『? なんだそりゃ?』
『星座盤と小型天体望遠鏡よ。今日は久しぶりに晴れたから』
『星なんて見てどうすんだ』
『どうもないわ、見て綺麗だなって思うだけ。強いて言うなら私のお仕事兼好きなこと』
そう言いながら目を伏せたベアトリーチェがいつもと違うように見えて、思わずニコルの心臓が跳ねる。いつものはつらつとした眩しさが、今だけどうにも柔らかい灯りのように感じて驚いたのだ。
落ち込んだわけではなく、どう見ても楽しみで仕方ないと言った風なのに雰囲気が違う彼女に驚いて、困惑する。
『ああ、そう。じゃああたしは寝直すとするから好きに、』
『ねえニコル』
一緒に見ない?
柔らかい笑みが、ニコルに向いた。
*
『はいどーぞ、コーヒーだよね?ミルクティーじゃなくてほんとによかった?』
『いつものでいいって』
湯気のたつマグを手渡されながら、ニコルは一口啜る。苦味と香りが口いっぱい広がりながら喉奥に滑り込んでいく感触にほう、と息をついた。隣ではいつの間に作ったのか、一人でハムサンドを頬張るベアトリーチェがいた。ぱちりと目があって、微笑まれる。それがなんだか気不味くて思わず目を逸らすが、ベアトリーチェが動いた音がしてまた彼女に視線を向けてしまう。
『うん、やっぱり今日はよく見える』
そう言いながら天を仰ぐベアトリーチェに、ニコルは言葉をなくした。
真夜中だと言うのに月が煌々と彼女を照らし、波打つ金糸に光を惜しみなく注ぐ。ランタンすら消しているのに、ベアトリーチェの周りだけ明るく見えた。いつだったか、ミサを行う教会に飾られたステンドグラスに描かれたマリアを思い出すが、それよりもベアトリーチェの方が実態を伴っていた。ニコルは、見たことがないものを信じない。だから実在する彼女の神聖さに似た何かを本物だと感じた。
純粋に綺麗だと思ったのは、いつ以来だ。
コーヒーではない何かを飲み込む。その音すら彼女の邪魔になりそうで、ニコルは思わず身を縮こまらせた。そして、腹の底にどろりと黒いものが滑り込む。
夜でも昼でも明るくて、人も疑わずただ笑っていられる彼女と、押し付けられた薄暗い過去からの、灰色の延長線を歩かされるだけの自分との落差に嫉妬した。押し付けられて、本当だったら変えられたかもしれないものまでずっと背負わされて、自分が探す人たちに会うまで自分は不安定のままで。
無性に叫びたくなった。彼女の髪を引っ掴んで引き倒して、力いっぱい殴りたい衝動に駆られた。静かな彼女の悲鳴を聞きたくなった。浅ましいのが自分だけだなんて思いたくなかった。
『ニコル、大丈夫』
柔らかい声だった。ニコルが思わず顔を上げる。ベアトリーチェは笑っていた。何もかもを許すと言った、高慢とも取れる目で。優しくて柔くて触れば壊れてしまいそうなのに、それでもベアトリーチェの方が強かに感じる。それはニコルの劣等感すらも宥めすかして行くようで、肩にかけられたタオルケットが呼応するようにずり落ちた。
それを拾ってもう一度ニコルの肩に掛けながらベアトリーチェはまた笑いかける。
『ニコルはニコルのままでいいの』
『……お前、あたしの何を知って』
『何も知らないわ。けど、ニコルったらずっと悩んでる顔をしてるんだもの。私じゃなくても分かっちゃうわ』
いつの間にかベアトリーチェの手にはカードの束が並べられていた。カンテラに光が入り、その手元を照らす。鮮やかにカード切って並べていく。紙が捲られる柔らかい音が静寂を止めていく。ニコルはその様子を眺めることしかできなかった。すい、と一枚のカードが目の前に差し出される。
『そのまま進んでニコル。大丈夫だから、星も数字もそう出てる』
『……なんだお前、シャーマンってやつか?生憎あたしは占いとかそう言うもんは信じない質でね』
『信じなくてもいいわよ、信じるものじゃないもの。結局占いなんて、数字の結果でしかない』
『だったら何で』
『私の占いは、背中を押すためのものだから』
ニコルだってどうしたいか、自分で分かっているんでしょう?
そう問いかけるベアトリーチェは笑っていなかった。とても真剣で、もしかすればニコルが初めて見た彼女の真顔なのかもしれない。
けれどもそれがどうしたっておかしく見えて、思わずニコルは笑ってしまったのだ。
『押されなくても、あたしは進めるってぇの』
そう、とベアトリーチェも笑った。
*
「すみまセーン!か、かご?かごままけん?に行くしたいデス。電車これ、あってるデスか?」
「かごましけん、だ」
「鹿児島県ですね」
駅員が苦笑しながら目の前の金と灰の頭を見る。外国人の対応は苦手なんだけどなぁ、という彼のぼやきは幸いにも目の前の二人には届いていない。だるそうな灰色と楽しそうな金色が印象的だな、とは思った。
「oh!そうデスそうデース!かごしま、けん!」
「わかる、した。よかったな。じゃ、ばいばい」
灰色が雑に手を振る。金色もそれに勢いよく返す。
『……――――』
『――! ――――!!』
最後に英語で何かを交わして、二人は別れた。義務教育以来英語など触っていない駅員は彼女たちが最後に何を言っていたのかはわからない。
けれども、良い旅なのだろうと思った。何故なら二人は笑っていた。金色は優しげに、灰色は呆れながらも微かに。そう、笑っていたのだから。
電車が走る。ニコルは東へ、ベアトリーチェは西へ。反対方向へ向かって進んでいく。畳む
#CoC #探索者 #小噺
金の星、灰の猫
「……」
ニコルは唖然としながら目の前のイギリス人の女を見ていた。凄い勢いで消えていくスイーツ。文字通り山を成していたそれを口に入れては美味しそうに咀嚼する様子に最早吐き気さえ覚えている。ニコルの手にしていたサンドイッチは幾分か前に食べることを放棄されていた。
『? ニコル、食べないの?』
『アンタが食べてるの見てたらもういいってなっちまったんだよ、ベアトリーチェ』
言いたいことは万も億もあるが、何とか抑えてそれだけ返事する。目の前のイギリス女改めベアトリーチェはじゃあ私にくださいと、ニコルが話すのとは異なる英語でそう答えた。
*
ニコルが日本へ入国し方々を回っていた時のことだった。道に迷ったニコルは目の前に薄汚れた金色の布を拾った。拾った、というかついてきたと言うべきだとはニコル談ではあるのだが、どうも拾われた側はそうは思っていないらしい。
小汚い布は、ベアトリーチェと名乗った。うっすらと黄色み掛かった、白にすら見える淡い波打つ髪を豪快に絡ませて鳥の巣を作っていたのを苦心しながら解いてやれば目の前の女はすぐにニコルに懐いた。財布を落として行き倒れていた彼女にこれっきりだと食事を奢ったのだが、その後は何をしてもついてきていた。何度か本気で撒いたにも関わらず気付けばニコルの行く先々に彼女の頭がひょっこり現れる。その度ニコルは肝を冷やしていた。
当然何か目的があるのか、と問い詰めたこともある。ニコルは住んでいた場所が場所だけに用心深かった。しかし疑われているベアトリーチェと言えば本当に何も企んでおらず、おそらく自分以外の外国人が珍しく、また助けてもらったからと言う理由で付いて回っているだけらしい。疑うだけ無駄だ、とニコルは色々諦めた。
『あ!ニコル見て、カエル!日本のカエルは小さくてかわいいわ!』
『へーへー、そうかい。腹の足しになら無さそうだな』
『食べない!なんてこと言うの!』
あちこちで見るなんの変哲もないものに一々騒ぐベアトリーチェをニコルが適当にあしらう。そうしただけベアトリーチェがうるさくなるもんだからいよいよニコルもムキになって言い返す。ベアトリーチェは楽しそうにそれに乗る。疲れてしまう結果は不本意にも一緒に過ごした数日で分かっているのに相手をするあたしもあたしだな、とニコルは自分にため息をついた。
*
ニコルがぱ、と目を開けたのはほとんどの建物から光が消えた夜更けだった。山奥に借りたコテージの中を何かを物色しているような音が響く。物盗りか、と警戒しながら横目で見るとベアトリーチェが自分の荷物を漁っていた。ニコルのカバンならば取り押さえてやるつもりだったがそうじゃない。
ならこんな夜更けにこいつは何を?気になったら暴かずにはいられない。
『何やってんだ、こんな夜中に』
『あ、起きちゃった?』
むくりと体を起こしたニコルに特に驚くこともなく、ベアトリーチェはごめんごめんと小さく手を合わせた。そんなことどうでもいいよと言い捨てて、視線で質問の続きを促せばベアトリーチェはくふくふと小さく笑って手にしたものを見せつける。
『? なんだそりゃ?』
『星座盤と小型天体望遠鏡よ。今日は久しぶりに晴れたから』
『星なんて見てどうすんだ』
『どうもないわ、見て綺麗だなって思うだけ。強いて言うなら私のお仕事兼好きなこと』
そう言いながら目を伏せたベアトリーチェがいつもと違うように見えて、思わずニコルの心臓が跳ねる。いつものはつらつとした眩しさが、今だけどうにも柔らかい灯りのように感じて驚いたのだ。
落ち込んだわけではなく、どう見ても楽しみで仕方ないと言った風なのに雰囲気が違う彼女に驚いて、困惑する。
『ああ、そう。じゃああたしは寝直すとするから好きに、』
『ねえニコル』
一緒に見ない?
柔らかい笑みが、ニコルに向いた。
*
『はいどーぞ、コーヒーだよね?ミルクティーじゃなくてほんとによかった?』
『いつものでいいって』
湯気のたつマグを手渡されながら、ニコルは一口啜る。苦味と香りが口いっぱい広がりながら喉奥に滑り込んでいく感触にほう、と息をついた。隣ではいつの間に作ったのか、一人でハムサンドを頬張るベアトリーチェがいた。ぱちりと目があって、微笑まれる。それがなんだか気不味くて思わず目を逸らすが、ベアトリーチェが動いた音がしてまた彼女に視線を向けてしまう。
『うん、やっぱり今日はよく見える』
そう言いながら天を仰ぐベアトリーチェに、ニコルは言葉をなくした。
真夜中だと言うのに月が煌々と彼女を照らし、波打つ金糸に光を惜しみなく注ぐ。ランタンすら消しているのに、ベアトリーチェの周りだけ明るく見えた。いつだったか、ミサを行う教会に飾られたステンドグラスに描かれたマリアを思い出すが、それよりもベアトリーチェの方が実態を伴っていた。ニコルは、見たことがないものを信じない。だから実在する彼女の神聖さに似た何かを本物だと感じた。
純粋に綺麗だと思ったのは、いつ以来だ。
コーヒーではない何かを飲み込む。その音すら彼女の邪魔になりそうで、ニコルは思わず身を縮こまらせた。そして、腹の底にどろりと黒いものが滑り込む。
夜でも昼でも明るくて、人も疑わずただ笑っていられる彼女と、押し付けられた薄暗い過去からの、灰色の延長線を歩かされるだけの自分との落差に嫉妬した。押し付けられて、本当だったら変えられたかもしれないものまでずっと背負わされて、自分が探す人たちに会うまで自分は不安定のままで。
無性に叫びたくなった。彼女の髪を引っ掴んで引き倒して、力いっぱい殴りたい衝動に駆られた。静かな彼女の悲鳴を聞きたくなった。浅ましいのが自分だけだなんて思いたくなかった。
『ニコル、大丈夫』
柔らかい声だった。ニコルが思わず顔を上げる。ベアトリーチェは笑っていた。何もかもを許すと言った、高慢とも取れる目で。優しくて柔くて触れば壊れてしまいそうなのに、それでもベアトリーチェの方が強かに感じる。それはニコルの劣等感すらも宥めすかして行くようで、肩にかけられたタオルケットが呼応するようにずり落ちた。
それを拾ってもう一度ニコルの肩に掛けながらベアトリーチェはまた笑いかける。
『ニコルはニコルのままでいいの』
『……お前、あたしの何を知って』
『何も知らないわ。けど、ニコルったらずっと悩んでる顔をしてるんだもの。私じゃなくても分かっちゃうわ』
いつの間にかベアトリーチェの手にはカードの束が並べられていた。カンテラに光が入り、その手元を照らす。鮮やかにカード切って並べていく。紙が捲られる柔らかい音が静寂を止めていく。ニコルはその様子を眺めることしかできなかった。すい、と一枚のカードが目の前に差し出される。
『そのまま進んでニコル。大丈夫だから、星も数字もそう出てる』
『……なんだお前、シャーマンってやつか?生憎あたしは占いとかそう言うもんは信じない質でね』
『信じなくてもいいわよ、信じるものじゃないもの。結局占いなんて、数字の結果でしかない』
『だったら何で』
『私の占いは、背中を押すためのものだから』
ニコルだってどうしたいか、自分で分かっているんでしょう?
そう問いかけるベアトリーチェは笑っていなかった。とても真剣で、もしかすればニコルが初めて見た彼女の真顔なのかもしれない。
けれどもそれがどうしたっておかしく見えて、思わずニコルは笑ってしまったのだ。
『押されなくても、あたしは進めるってぇの』
そう、とベアトリーチェも笑った。
*
「すみまセーン!か、かご?かごままけん?に行くしたいデス。電車これ、あってるデスか?」
「かごましけん、だ」
「鹿児島県ですね」
駅員が苦笑しながら目の前の金と灰の頭を見る。外国人の対応は苦手なんだけどなぁ、という彼のぼやきは幸いにも目の前の二人には届いていない。だるそうな灰色と楽しそうな金色が印象的だな、とは思った。
「oh!そうデスそうデース!かごしま、けん!」
「わかる、した。よかったな。じゃ、ばいばい」
灰色が雑に手を振る。金色もそれに勢いよく返す。
『……――――』
『――! ――――!!』
最後に英語で何かを交わして、二人は別れた。義務教育以来英語など触っていない駅員は彼女たちが最後に何を言っていたのかはわからない。
けれども、良い旅なのだろうと思った。何故なら二人は笑っていた。金色は優しげに、灰色は呆れながらも微かに。そう、笑っていたのだから。
電車が走る。ニコルは東へ、ベアトリーチェは西へ。反対方向へ向かって進んでいく。畳む
#CoC #探索者 #小噺
CoC「VOID」ネタバレあり。該当シナリオの後日談。同卓PCのお名前、及びよそ様の相方をお借りしています。
幼気を縊る
蛍光灯が瞬いて、コンクリ質の壁に鈍く反射しているのに薄暗い。そんな拘置所は一昔も前の話だ。今は犯罪者との接見室も白に統一され、一定の明るさを保っている。その面会者側に潮は掛けていた。後ろには帽子を目深に被った相棒と、不安そうにしているアンドロイド課暫定班長が立っている。
不思議な感覚だと思う。本来ここに座るのは潮ではなく伊智か玲斗、つまり人間であってアンドロイドである自分ではないはずなのだ。立場が逆になっている。
奥の、強化ガラスの向こう側。その扉が開く。
人間の担当官の後ろから、有馬真二が姿を見せた。
※
有馬が潮との面会を希望している。不安そうに玲斗が潮と伊智にそう告げたのは半月前の事だ。あの事件の詳細は、世間には隠匿されている。それもそうだ、リボット社のアンドロイドは警察だって利用しているのだ。その社長が起こした事件による、警察へのイメージダウンを恐れて重要な部分は隠蔽されている。当然、当事者のアンドロイド課にも箝口令が敷かれていた。その処理に追われている中での事だった。
「俺としては…反対なんだけど。でも上層部はあわよくば潮に有馬真二の技術を引っ張り出させたいみたいでさ」
ごめん、抵抗しきれなかった。申し訳なさそうに謝る玲斗に構わないと告げる。はて、その時自分はどんな感情を抱いたいのだろうか。
「潮」
ふと隣を見たら帽子の鍔が映り込む。伊智が心配そうな、憤っているような、そんな微妙な顔で俺を見た。
「大丈夫だって。流石に丸腰だろうからさ。前みたく銃口を向けさせたりなんて出来やしないと思うし」
自分で言って、冷たいものが背中に走った、気がした。気がするのはこの体はもはやセンサーを切り替えなければ悪寒すら感じ取れないものになっているからだ。それでも確かに、そう感じた。”有馬潮”として。
またぞわり、とそれが背中を落ちる。雑音になりそうな思考に蓋をして潮は有馬との面会に応じた。
※
老けたな。強化ガラス越しに見る有馬を見た潮の感想はそれだった。夏央を取り込ませた機械の神の隣で立っていた時より狂気はなりを潜めているが、落ち窪んだ目には深く影を差している。艶を無くした白髪が不気味さを助長させていて、いっそ哀れだと思った。
機械の存在の潮ですらそうなのだから、背後に立つ人間二人はそれ以上に感じるだろう。伊智が息を呑む音がする。それを留意事項に留めておきながら潮は改めて目の前の男と向き合った。
視線が合う。絡む。その瞬間ぎょろりとした目が少し優しげに歪んだ。
「潮、調子はどうだ? 身体はどこも、痛くないかい?」
その言葉に搭載された演算機能は素早く「正気ではない」という答えを叩き出した。しかし、感情が確かな記憶を伴って揺れる。
『潮、調子はどうだ? ……すまない、仕事でちゃんといてやれなくて。痛い所はないかい?』
心臓が弱くてよく寝込んでいた潮に、頭を撫でながら不器用に温度をかたむけていた時の。
リフレインする記憶を無理やり蓋をする。勤めて自分はアンドロイドだと言い聞かせる。
「修繕とメンテナンスは済ませてある。問題はない」
「そうか。よかった……所で、夏央は?伊智くんは? 今日は一緒に遊んでいないのかい?」
言葉に詰まる。それ以上に機械すら焼け付くような衝動が口から出そうになった。なんとか押し留めているそれは確実に潮を焼いている。燃えている、とは少し違う。煮えたぎって尚、尽きないような。そんな衝動を呑み込む。
今は、有馬との会話を続けるのが最優先だ。そう言い聞かせる。
「伊智は今日、用事でいない。夏央は……シロウの散歩に出てるよ。俺は留守番だ」
「そうか、会えなくて残念だ」
「……用って、なんだ。会いたいと聞いたから来たんだが」
「そうなんだよ、お前にとっても朗報かもしれないんだ。できたんだよ、傑作とも言えるアンドロイドが」
有馬の顔が喜色に染まる。潮は不愉快で仕方なかった。あれだけのことをして、奪って、壊して、掻き乱したこの男が、自分だけ一番幸せだった時に戻っている。
あの時、殴り殺しておけば良かったか。
そうすれば自分が敗北した瞬間で終わらせてやったのに、とらしくない、物騒なことを考えている自分を自覚できないまま有馬の話は続く。どうやら技術のことを話しているらしく、断片的ではあるが、最新型の、潮のボディの詳細を話しているらしかった。
らしかった、と言うのは音声データとして記録はしているが、潮自身この話に興味がなかったからだ。興味がないと言うか、理解できないというか。背後で玲斗の小さな声が聞こえている。どうやら彼には内容がわかるらしい。それもそうだ、潮をメンテナンスしているのは玲斗なのだ。実際見て触っているのだからこの場にいる誰よりも精通している。
「だから、もうすぐだ。もうすぐ走れるようになるからな、潮」
瞠目した。本来アンドロイドにはない仕草だ。しかし、確実に潮は動揺した。
なんて言った、この男は。
聞き返すこともできないまま有馬を見る。その瞳は狂気に染まりきって現実を見ていない。けれども表情は、声音は、父親のそれだった。家族に向ける、愛情だった。
「お前、サッカーがしたいと言っていただろう? それに、シロウの散歩も。夏央とはプールに行きたいと言っていたし、伊智くんとは絵を描きに公園へ行ってみたいとも言っていたじゃないか」
「……ぁ」
「大丈夫、大丈夫だ。叶うから、叶えてあげるからな。潮」
この男は狂っている。わかっている、理解だってしていて、まともに取り合う必要は無い。それでも傾けられた感情は間違いなく暖かいもので、倒錯しているが本物で。
割り切ろうと、振り切ろうとしている、のに。
ガタン、と音がした。我に返って振り返ると玲斗が伊智を抑えている。荒い呼吸音が響いている。思わずバイタルを取ると酷く興奮しているのが分かった。
無言で立ち上がった潮に、玲斗がもういいんですか、と問う。もういい、これ以上は無駄だと吐き捨てた。
「? 潮、どうしたんだい? 何処へ」
「っお前が……!!」
「伊智」
激昂しかけた伊智の腕を強く掴んで制止する。なんで、と言いたげな伊智の視線を受け止めながら潮は少し逡巡する。
「……俺、今走れてるよ。お父さん」
それだけ告げて、伊智を引き摺って接見室を後にする。そうか、良かったと響いた柔らかい声は聞かなかったことにした。
※
「潮、おい、良いのかよあれ!」
引き摺られている伊智が噛み付いた。何が、と億劫に返した潮に少し言い淀む。
「……あんなの、逃避だろ?あれだけのことしでかして、黄海さんも、俺のお父さんとお母さんも、赤星兄さんだって……」
「それについてはもう殴ってある。終わった話だよ」
「終わったって、お前、有馬の行動で黒田さんが、お前だって!」
「……」
伊智が何を言いたいか、何となくわかる。有馬は狂うことで逃げたと言いたいのだろう。全てを巻き込みながらも遂げられなかったと言う現実から。お前は許せるのかと、伊智は言いたいんだろう。
彼はきっと、許せないんだろう。それでもいいと潮は思う。その権利が、有馬を憎む権利が彼にはある。
ただ一人、理不尽な憎悪を向けられて何もかも失っている。それは潮とて同じだが、失ったものに決定的な違いがあった。
伊智は大切な人たちを失った。潮は自分の命と時間を失った。その差異は、限りなく大きい。
だからなのだろうか。有馬を殴ってからはあの男を薄気味悪いと思いこそすれ憎悪はわかなかった。有馬潮がそうなのか、人の為の機械になってしまったからなのかは、分からないが。
「……潮?」
不安そうな伊智の声にはっとする。物思いに耽って相棒に応えない機体が何処にいる、と嫌悪してからなんともないから、と伊智から距離を取る。
「えっ、ちょ、何処に……」
「席を外すよ、仕事はもう終わったろ?」
「なら俺も……」
「少しだけ一人にしてくれ」
レミに位置情報は送っておくし、回線は開いてるから。何かあったら呼んでくれ。
それだけ告げて潮は踵を返す。背後で伊智と玲斗の声がする。聞こえていない振りをした。
※
二人から離れた潮が居たのは、夏央の墓前だった。時代や科学がどれだけ進もうとも故人を憂い尊ぶ心というものは人から消えることは無いらしい。最も、葬儀や手続きの大部分はデジタル化され、住職の仕事も機械に取って変わっている。その中でも唯一、墓というものは形として残っている。それもまあ、かなり形骸化されて来てはいるが。
墓石に刻まれた姉の名前を見る。そこには犬型ロボットが丸くなって停止している。
あの戦いの後、夏央の遺体に寄り添うようにこうなっていたらしい。その後どれだけ修復しても、燃料を足しても動かなかった。まるで拒絶するかのように。
そんな様子を眺めながら、制服のポケットからガラクタを取り出した。
レンズが割れて、フレームが歪んでいるメガネ。夏央のものだったそれはゴミと言って差し支えない。捨てるべきものだ。手元に置いておくなんて、非合理がすぎる。
けれども、潮はこれを手放せないでいる。
有馬の話を、伊智の言葉を、動かなくなったシロウを、夏央の死に目を思い出す。湧き上がる感情に名前がつけられないままだ。
同時に思う。これは本当に俺の感情か?と。
有馬潮の記憶を後付けされただけのアンドロイドが、感情を謳っているだけなのではないか。陽凪の様に感情学習機能がある訳でもない。それもそうだ。死にかけた有馬潮の依代になっただけの機械なのだから。
目の前の墓に視線を向ける。そこにあるのは夏央の名前だけ。有馬潮の記載は、どこにも無い。
記憶があるのに、存在していた証明が出来ない。はっきりしているのにあやふやで、形があるのにそれを自分だと言いきれない。
伊智のクレヨンを折ったのは。
そのクレヨンを夏央と一緒に買って返したのは。
画面に映る母と笑いあったのは。
父に外で遊びたいと、願ったのは。
間違いなく潮なのに、どこにも「俺」を見つけられなくて。
俺は本当に居たのかな、なんて。
「……なつ姉、俺、本当になつ姉の弟だった?」
答えは無い。何もかも明確にならないまま潮は踵を返す。答えが欲しい。俺はなんなのか。
当面は廃棄処分されないように、また有馬のような悲しみにくれないように。
人間たちへの心象を良くするために、愛嬌を撒いておこう。スパローへ行った二人には親しみが湧きやすいようにアンドロイドらしくなく居よう。伊智は俺でもいいと言いながら「有馬潮」を求めているから、それをなぞろう。
せめて、せめて今。ここにいる「俺」が、壊されないように。昔のことがぐちゃぐちゃて不明瞭で、それでも今ここに有るのは、間違いないから、だから。
否定、しないで。どうか。お願い。望む形でいるから。そういう形でいるから。楽しいねって、思って貰えるように。そうやって動くから。
ここに居させて。
軋む稼働音の合間に、ごめんねと今はもう聞けない声が響いた気がした。畳む
#CoC #VOID
幼気を縊る
蛍光灯が瞬いて、コンクリ質の壁に鈍く反射しているのに薄暗い。そんな拘置所は一昔も前の話だ。今は犯罪者との接見室も白に統一され、一定の明るさを保っている。その面会者側に潮は掛けていた。後ろには帽子を目深に被った相棒と、不安そうにしているアンドロイド課暫定班長が立っている。
不思議な感覚だと思う。本来ここに座るのは潮ではなく伊智か玲斗、つまり人間であってアンドロイドである自分ではないはずなのだ。立場が逆になっている。
奥の、強化ガラスの向こう側。その扉が開く。
人間の担当官の後ろから、有馬真二が姿を見せた。
※
有馬が潮との面会を希望している。不安そうに玲斗が潮と伊智にそう告げたのは半月前の事だ。あの事件の詳細は、世間には隠匿されている。それもそうだ、リボット社のアンドロイドは警察だって利用しているのだ。その社長が起こした事件による、警察へのイメージダウンを恐れて重要な部分は隠蔽されている。当然、当事者のアンドロイド課にも箝口令が敷かれていた。その処理に追われている中での事だった。
「俺としては…反対なんだけど。でも上層部はあわよくば潮に有馬真二の技術を引っ張り出させたいみたいでさ」
ごめん、抵抗しきれなかった。申し訳なさそうに謝る玲斗に構わないと告げる。はて、その時自分はどんな感情を抱いたいのだろうか。
「潮」
ふと隣を見たら帽子の鍔が映り込む。伊智が心配そうな、憤っているような、そんな微妙な顔で俺を見た。
「大丈夫だって。流石に丸腰だろうからさ。前みたく銃口を向けさせたりなんて出来やしないと思うし」
自分で言って、冷たいものが背中に走った、気がした。気がするのはこの体はもはやセンサーを切り替えなければ悪寒すら感じ取れないものになっているからだ。それでも確かに、そう感じた。”有馬潮”として。
またぞわり、とそれが背中を落ちる。雑音になりそうな思考に蓋をして潮は有馬との面会に応じた。
※
老けたな。強化ガラス越しに見る有馬を見た潮の感想はそれだった。夏央を取り込ませた機械の神の隣で立っていた時より狂気はなりを潜めているが、落ち窪んだ目には深く影を差している。艶を無くした白髪が不気味さを助長させていて、いっそ哀れだと思った。
機械の存在の潮ですらそうなのだから、背後に立つ人間二人はそれ以上に感じるだろう。伊智が息を呑む音がする。それを留意事項に留めておきながら潮は改めて目の前の男と向き合った。
視線が合う。絡む。その瞬間ぎょろりとした目が少し優しげに歪んだ。
「潮、調子はどうだ? 身体はどこも、痛くないかい?」
その言葉に搭載された演算機能は素早く「正気ではない」という答えを叩き出した。しかし、感情が確かな記憶を伴って揺れる。
『潮、調子はどうだ? ……すまない、仕事でちゃんといてやれなくて。痛い所はないかい?』
心臓が弱くてよく寝込んでいた潮に、頭を撫でながら不器用に温度をかたむけていた時の。
リフレインする記憶を無理やり蓋をする。勤めて自分はアンドロイドだと言い聞かせる。
「修繕とメンテナンスは済ませてある。問題はない」
「そうか。よかった……所で、夏央は?伊智くんは? 今日は一緒に遊んでいないのかい?」
言葉に詰まる。それ以上に機械すら焼け付くような衝動が口から出そうになった。なんとか押し留めているそれは確実に潮を焼いている。燃えている、とは少し違う。煮えたぎって尚、尽きないような。そんな衝動を呑み込む。
今は、有馬との会話を続けるのが最優先だ。そう言い聞かせる。
「伊智は今日、用事でいない。夏央は……シロウの散歩に出てるよ。俺は留守番だ」
「そうか、会えなくて残念だ」
「……用って、なんだ。会いたいと聞いたから来たんだが」
「そうなんだよ、お前にとっても朗報かもしれないんだ。できたんだよ、傑作とも言えるアンドロイドが」
有馬の顔が喜色に染まる。潮は不愉快で仕方なかった。あれだけのことをして、奪って、壊して、掻き乱したこの男が、自分だけ一番幸せだった時に戻っている。
あの時、殴り殺しておけば良かったか。
そうすれば自分が敗北した瞬間で終わらせてやったのに、とらしくない、物騒なことを考えている自分を自覚できないまま有馬の話は続く。どうやら技術のことを話しているらしく、断片的ではあるが、最新型の、潮のボディの詳細を話しているらしかった。
らしかった、と言うのは音声データとして記録はしているが、潮自身この話に興味がなかったからだ。興味がないと言うか、理解できないというか。背後で玲斗の小さな声が聞こえている。どうやら彼には内容がわかるらしい。それもそうだ、潮をメンテナンスしているのは玲斗なのだ。実際見て触っているのだからこの場にいる誰よりも精通している。
「だから、もうすぐだ。もうすぐ走れるようになるからな、潮」
瞠目した。本来アンドロイドにはない仕草だ。しかし、確実に潮は動揺した。
なんて言った、この男は。
聞き返すこともできないまま有馬を見る。その瞳は狂気に染まりきって現実を見ていない。けれども表情は、声音は、父親のそれだった。家族に向ける、愛情だった。
「お前、サッカーがしたいと言っていただろう? それに、シロウの散歩も。夏央とはプールに行きたいと言っていたし、伊智くんとは絵を描きに公園へ行ってみたいとも言っていたじゃないか」
「……ぁ」
「大丈夫、大丈夫だ。叶うから、叶えてあげるからな。潮」
この男は狂っている。わかっている、理解だってしていて、まともに取り合う必要は無い。それでも傾けられた感情は間違いなく暖かいもので、倒錯しているが本物で。
割り切ろうと、振り切ろうとしている、のに。
ガタン、と音がした。我に返って振り返ると玲斗が伊智を抑えている。荒い呼吸音が響いている。思わずバイタルを取ると酷く興奮しているのが分かった。
無言で立ち上がった潮に、玲斗がもういいんですか、と問う。もういい、これ以上は無駄だと吐き捨てた。
「? 潮、どうしたんだい? 何処へ」
「っお前が……!!」
「伊智」
激昂しかけた伊智の腕を強く掴んで制止する。なんで、と言いたげな伊智の視線を受け止めながら潮は少し逡巡する。
「……俺、今走れてるよ。お父さん」
それだけ告げて、伊智を引き摺って接見室を後にする。そうか、良かったと響いた柔らかい声は聞かなかったことにした。
※
「潮、おい、良いのかよあれ!」
引き摺られている伊智が噛み付いた。何が、と億劫に返した潮に少し言い淀む。
「……あんなの、逃避だろ?あれだけのことしでかして、黄海さんも、俺のお父さんとお母さんも、赤星兄さんだって……」
「それについてはもう殴ってある。終わった話だよ」
「終わったって、お前、有馬の行動で黒田さんが、お前だって!」
「……」
伊智が何を言いたいか、何となくわかる。有馬は狂うことで逃げたと言いたいのだろう。全てを巻き込みながらも遂げられなかったと言う現実から。お前は許せるのかと、伊智は言いたいんだろう。
彼はきっと、許せないんだろう。それでもいいと潮は思う。その権利が、有馬を憎む権利が彼にはある。
ただ一人、理不尽な憎悪を向けられて何もかも失っている。それは潮とて同じだが、失ったものに決定的な違いがあった。
伊智は大切な人たちを失った。潮は自分の命と時間を失った。その差異は、限りなく大きい。
だからなのだろうか。有馬を殴ってからはあの男を薄気味悪いと思いこそすれ憎悪はわかなかった。有馬潮がそうなのか、人の為の機械になってしまったからなのかは、分からないが。
「……潮?」
不安そうな伊智の声にはっとする。物思いに耽って相棒に応えない機体が何処にいる、と嫌悪してからなんともないから、と伊智から距離を取る。
「えっ、ちょ、何処に……」
「席を外すよ、仕事はもう終わったろ?」
「なら俺も……」
「少しだけ一人にしてくれ」
レミに位置情報は送っておくし、回線は開いてるから。何かあったら呼んでくれ。
それだけ告げて潮は踵を返す。背後で伊智と玲斗の声がする。聞こえていない振りをした。
※
二人から離れた潮が居たのは、夏央の墓前だった。時代や科学がどれだけ進もうとも故人を憂い尊ぶ心というものは人から消えることは無いらしい。最も、葬儀や手続きの大部分はデジタル化され、住職の仕事も機械に取って変わっている。その中でも唯一、墓というものは形として残っている。それもまあ、かなり形骸化されて来てはいるが。
墓石に刻まれた姉の名前を見る。そこには犬型ロボットが丸くなって停止している。
あの戦いの後、夏央の遺体に寄り添うようにこうなっていたらしい。その後どれだけ修復しても、燃料を足しても動かなかった。まるで拒絶するかのように。
そんな様子を眺めながら、制服のポケットからガラクタを取り出した。
レンズが割れて、フレームが歪んでいるメガネ。夏央のものだったそれはゴミと言って差し支えない。捨てるべきものだ。手元に置いておくなんて、非合理がすぎる。
けれども、潮はこれを手放せないでいる。
有馬の話を、伊智の言葉を、動かなくなったシロウを、夏央の死に目を思い出す。湧き上がる感情に名前がつけられないままだ。
同時に思う。これは本当に俺の感情か?と。
有馬潮の記憶を後付けされただけのアンドロイドが、感情を謳っているだけなのではないか。陽凪の様に感情学習機能がある訳でもない。それもそうだ。死にかけた有馬潮の依代になっただけの機械なのだから。
目の前の墓に視線を向ける。そこにあるのは夏央の名前だけ。有馬潮の記載は、どこにも無い。
記憶があるのに、存在していた証明が出来ない。はっきりしているのにあやふやで、形があるのにそれを自分だと言いきれない。
伊智のクレヨンを折ったのは。
そのクレヨンを夏央と一緒に買って返したのは。
画面に映る母と笑いあったのは。
父に外で遊びたいと、願ったのは。
間違いなく潮なのに、どこにも「俺」を見つけられなくて。
俺は本当に居たのかな、なんて。
「……なつ姉、俺、本当になつ姉の弟だった?」
答えは無い。何もかも明確にならないまま潮は踵を返す。答えが欲しい。俺はなんなのか。
当面は廃棄処分されないように、また有馬のような悲しみにくれないように。
人間たちへの心象を良くするために、愛嬌を撒いておこう。スパローへ行った二人には親しみが湧きやすいようにアンドロイドらしくなく居よう。伊智は俺でもいいと言いながら「有馬潮」を求めているから、それをなぞろう。
せめて、せめて今。ここにいる「俺」が、壊されないように。昔のことがぐちゃぐちゃて不明瞭で、それでも今ここに有るのは、間違いないから、だから。
否定、しないで。どうか。お願い。望む形でいるから。そういう形でいるから。楽しいねって、思って貰えるように。そうやって動くから。
ここに居させて。
軋む稼働音の合間に、ごめんねと今はもう聞けない声が響いた気がした。畳む
#CoC #VOID
CoC「黒幕が如く!」ネタバレあり。該当シナリオ後日談。よそ様のキャラクターをお借りしています。
つみかさね
目の前の小さな箱の中から聞こえる断末魔をつまらなさそうに聞きながら、芳は何もないところから異形のフィギュアを引っ張り出す。それを無造作に箱の中に放り込めばそれは中にいるものにとっての致命的な敵対者となり、圧倒的捕食者として非捕食者と成り下がった者を食い荒らした。
「精が出ますね」
仕切られた箱の隅に飛び散る血を眺めていると背後から声がかけられる。この数週間で幾分と聞き慣れた声に振り替える必要も感じず、箱を眺めたまま芳は薄ら笑いを浮かべた。
「まあな。ただ最近ボキャ貧やわ」
「そう言う割には律儀に皆殺しではありませんか」
「後出しで負けるジャンケンがあるやろか?」
その言葉に声の主がそれもそうだ、と心底楽しそうに笑う。彼はぽん、と芳の肩に手を置いた。吐息が耳に掛かる。ともすれば唇が触れそうな位の距離で男は芳に囁いた。
「本当に貴方は良い拾い物です。我が後継が天職なほどだ」
「お褒めに預かり光栄やわ、元祖様?」
「心は痛みませんか?」
気を使うような言葉だった。だがそこに一切の感情はない。ただ時々芳を揺さぶりたいのかこの男は唐突に芳の倫理観が一般からかけ離れているぞ、と暗に小馬鹿にしてくる時がある。最初こそ腹を立てたが今はそれすら可愛いと思えてしまうのだ。
「傷んだら、癒してもらえるやろか?」
「まさか」
「せやろ? そもそもほんまに痛むと思うてます?」
「それこそまさか、ですよ」
くつくつと、混じり気なしの低い笑い声がふたつ。黒い空間に溶けて消えた。
*
「芳、あのガングロ野郎に関わるのやめろ」
唐突だった。ウィリアムも小桃も、子供たちや嘉人もおらず明彦と二人きりという珍しい日だった。太陽が一番高い所から落ち始めた頃に起き出した芳を見るなり開口一番明彦がそんなことを言い出した。威圧的とも取れるその声音と言葉の意味に呆けていた頭がじわじわと覚醒する。
そして芳は自分の機嫌が急降下するのを自覚した。
「……俺の人脈にケチつけるんか。俺の顧客から仕事取っておいて、ええ根性やないか」
「ああ、あいつに関してはクレーム入れさせてもらう」
少し脅かせば目の前の子犬のような不良は引っ込むだろうとたかを括っていた芳は、しかし食らいついてきた明彦に面食らう。明彦は忌々しい、と心配を入り混ぜたような複雑な顔をしていた。それ以上に赤い目が芳を真っ直ぐ見ていたのがなんとなく居た堪れなくて芳の方から目を逸らしてしまった。その事実に釈然としないまま頭を通さず言葉を放り出す。
「なんや? お友達でもいじめられたんかいな。それやったらそういうんやめたれってお願いしといたろか? それやったら俺が誰とお付き合いしようが明彦には関係あらへんやろ」
「その台詞、あいつが人間じゃないってわかって言ってんのか。あいつは芳が、つか人間が関わって良いもんじゃない。あんたあいつに思ってるより軽く見られてんだよ。どうせ玩具だと思われてる。さっさと関わるのやめろ」
「は、何を言うてんの。そない妄想は卒業せんと痛いで」
なんだ。なんで俺は責められているんだ。
芳はわけがわからなかった。いつもなら明彦と口論すれば口八丁が十八番の芳が地団駄を踏む明彦を丸め込んで終わりで、今回もそなるはずだったのだ。なのに明彦は至極冷静に正論を返してくる。
そう、正論を。
「今一番痛いのはお前だよ」
正論、を。
言葉の意味を理解する前に芳は思わず明彦に殴りかかった。自分が沼男だということも頭から抜けて、触れば明彦を沼男にするということも考慮せず、ただ黙らせたくて殴りかかる。だが明彦はそれを分かっていたと言わんばかりに避ける。修羅場の数は芳のが潜っているだろう。しかし現場に出て、時折荒事もこなしている明彦のが自分の体の使い方を分かっていた。芳が勢いよく床に倒れ込む。
明彦に、自分より格下に見下ろされている。面倒を見てやっているものに、自分より下の存在に。
思わず部屋を呼び出しそうになった。
明彦の失望したような表情は見ないふりをして、自分にできる最大を持って排除しようとして、そして。
*
断末魔が上がる箱を、芳はただつまらなさそうに見ていた。血飛沫が上がる。肉片が飛び散る。最後まで生きたいと視線を彷徨わせるその瞳が濁る瞬間を見る。
「あの子供も放り込んで仕舞えば良かったのに」
つい先程姿を消した男はやれやれと肩を竦めてそういった。芳は明彦をこの箱に入れなかった。我に帰ったからではない。無抵抗の明彦の間に割って入った白い毛玉の生き物に邪魔されたからだ。触手のような尾をバシン、と床に叩きつけながら唸りを上げるその小さな生き物に芳は正気を引き戻される。それを抱えながら明彦がボソリと呟いた。
『戻って来れなくなる前にどうにかしろよ』
そこから明彦とは会話をしていない。というよりもその真っ直ぐさがあまりに忌々しいと感じてしまい直視できなくなった芳から避けているのだ。明彦は何か言いたげにしているがそれにも気づかないふりをして。
もう一人、可哀想な人間を放り込む。悲鳴。血飛沫。断末魔。倒錯。迷走。発狂。明彦の言葉が薄れていく。
(こんなん、やめれるわけあれへんやろ)
他人を掌握する全能感に、芳はとっくの昔に戻れなくなっていたのだから。畳む
#CoC #ネタバレ
つみかさね
目の前の小さな箱の中から聞こえる断末魔をつまらなさそうに聞きながら、芳は何もないところから異形のフィギュアを引っ張り出す。それを無造作に箱の中に放り込めばそれは中にいるものにとっての致命的な敵対者となり、圧倒的捕食者として非捕食者と成り下がった者を食い荒らした。
「精が出ますね」
仕切られた箱の隅に飛び散る血を眺めていると背後から声がかけられる。この数週間で幾分と聞き慣れた声に振り替える必要も感じず、箱を眺めたまま芳は薄ら笑いを浮かべた。
「まあな。ただ最近ボキャ貧やわ」
「そう言う割には律儀に皆殺しではありませんか」
「後出しで負けるジャンケンがあるやろか?」
その言葉に声の主がそれもそうだ、と心底楽しそうに笑う。彼はぽん、と芳の肩に手を置いた。吐息が耳に掛かる。ともすれば唇が触れそうな位の距離で男は芳に囁いた。
「本当に貴方は良い拾い物です。我が後継が天職なほどだ」
「お褒めに預かり光栄やわ、元祖様?」
「心は痛みませんか?」
気を使うような言葉だった。だがそこに一切の感情はない。ただ時々芳を揺さぶりたいのかこの男は唐突に芳の倫理観が一般からかけ離れているぞ、と暗に小馬鹿にしてくる時がある。最初こそ腹を立てたが今はそれすら可愛いと思えてしまうのだ。
「傷んだら、癒してもらえるやろか?」
「まさか」
「せやろ? そもそもほんまに痛むと思うてます?」
「それこそまさか、ですよ」
くつくつと、混じり気なしの低い笑い声がふたつ。黒い空間に溶けて消えた。
*
「芳、あのガングロ野郎に関わるのやめろ」
唐突だった。ウィリアムも小桃も、子供たちや嘉人もおらず明彦と二人きりという珍しい日だった。太陽が一番高い所から落ち始めた頃に起き出した芳を見るなり開口一番明彦がそんなことを言い出した。威圧的とも取れるその声音と言葉の意味に呆けていた頭がじわじわと覚醒する。
そして芳は自分の機嫌が急降下するのを自覚した。
「……俺の人脈にケチつけるんか。俺の顧客から仕事取っておいて、ええ根性やないか」
「ああ、あいつに関してはクレーム入れさせてもらう」
少し脅かせば目の前の子犬のような不良は引っ込むだろうとたかを括っていた芳は、しかし食らいついてきた明彦に面食らう。明彦は忌々しい、と心配を入り混ぜたような複雑な顔をしていた。それ以上に赤い目が芳を真っ直ぐ見ていたのがなんとなく居た堪れなくて芳の方から目を逸らしてしまった。その事実に釈然としないまま頭を通さず言葉を放り出す。
「なんや? お友達でもいじめられたんかいな。それやったらそういうんやめたれってお願いしといたろか? それやったら俺が誰とお付き合いしようが明彦には関係あらへんやろ」
「その台詞、あいつが人間じゃないってわかって言ってんのか。あいつは芳が、つか人間が関わって良いもんじゃない。あんたあいつに思ってるより軽く見られてんだよ。どうせ玩具だと思われてる。さっさと関わるのやめろ」
「は、何を言うてんの。そない妄想は卒業せんと痛いで」
なんだ。なんで俺は責められているんだ。
芳はわけがわからなかった。いつもなら明彦と口論すれば口八丁が十八番の芳が地団駄を踏む明彦を丸め込んで終わりで、今回もそなるはずだったのだ。なのに明彦は至極冷静に正論を返してくる。
そう、正論を。
「今一番痛いのはお前だよ」
正論、を。
言葉の意味を理解する前に芳は思わず明彦に殴りかかった。自分が沼男だということも頭から抜けて、触れば明彦を沼男にするということも考慮せず、ただ黙らせたくて殴りかかる。だが明彦はそれを分かっていたと言わんばかりに避ける。修羅場の数は芳のが潜っているだろう。しかし現場に出て、時折荒事もこなしている明彦のが自分の体の使い方を分かっていた。芳が勢いよく床に倒れ込む。
明彦に、自分より格下に見下ろされている。面倒を見てやっているものに、自分より下の存在に。
思わず部屋を呼び出しそうになった。
明彦の失望したような表情は見ないふりをして、自分にできる最大を持って排除しようとして、そして。
*
断末魔が上がる箱を、芳はただつまらなさそうに見ていた。血飛沫が上がる。肉片が飛び散る。最後まで生きたいと視線を彷徨わせるその瞳が濁る瞬間を見る。
「あの子供も放り込んで仕舞えば良かったのに」
つい先程姿を消した男はやれやれと肩を竦めてそういった。芳は明彦をこの箱に入れなかった。我に帰ったからではない。無抵抗の明彦の間に割って入った白い毛玉の生き物に邪魔されたからだ。触手のような尾をバシン、と床に叩きつけながら唸りを上げるその小さな生き物に芳は正気を引き戻される。それを抱えながら明彦がボソリと呟いた。
『戻って来れなくなる前にどうにかしろよ』
そこから明彦とは会話をしていない。というよりもその真っ直ぐさがあまりに忌々しいと感じてしまい直視できなくなった芳から避けているのだ。明彦は何か言いたげにしているがそれにも気づかないふりをして。
もう一人、可哀想な人間を放り込む。悲鳴。血飛沫。断末魔。倒錯。迷走。発狂。明彦の言葉が薄れていく。
(こんなん、やめれるわけあれへんやろ)
他人を掌握する全能感に、芳はとっくの昔に戻れなくなっていたのだから。畳む
#CoC #ネタバレ
FF14 自機『アベル・ディアボロス』の話。種族の自己解釈・自己表現があります。ほんのり相方が出ています。(notうちよそ)
我らの親愛、此処に有り
「ねえねえアベル、アベルの一族の話を聞かせて」
ニコラスのその言葉にまたかと呆れ半分微笑ましさ半分で笑みが溢れる。アベルとしては何度も語ってしまい少々飽きている上それが自分の生まれのことだから妙な羞恥心に苛まれるので御免被りたい。しかし愛しの妻がそれを望んでいるのなら、と随分中身の少なくなったグラスをテーブルに置いてあぐらをかいた上に座り込んでいるニコラスを抱きしめる。話の終盤で舟を漕ぐのはかなり前から知っていた。
「本当にこの話好きだな、ニコは」
「うん、好きなの。寝物語にもちょうどいいしね~」
「はいはい。寝たかったら好きなときに寝てください」
はぁい、と言いながらもたれ掛かってくる重みを腹で受けながらアベルは口を開いた。
*
それは、昔々のお話だ。誰も覚えていないアウラ・ゼラの女性が、アジムステップで生きる自分の種族から逃げ出した。理由はわからない。謀略だとも夜逃げだとも、駆け落ちだとも言われているが真相はどこにも記されていない。とにかくその女性はそこから逃げ出した。
逃げて、逃げて。乗っていた馬が過労で息絶え食料が尽き水が枯れても彼女は逃げ続けて、今で言うオサード地方から遠く離れたイシュガルドの地で倒れふした。
その時の彼女は己の一族からではなく竜詩戦争真っ只中だったイシュガルドの民に角と尾のせいでドラゴン族の手先だと追われていた。ドラゴンとイシュガルディアンに追われて力尽きた彼女を救ったのはヒューラン族の旅人だったと伝わっている。
そこから彼女と彼の逃亡ではない、世界を巡る旅が始まった。同じ頃彼女は彼に教わりながら己の一族にはなかった文化である文字に触れていたからか、手記を残している。初めて見る海、吹き荒れる砂嵐、空も覆う木々のさざめき。全てが彼女にとって初めてで、心を動かしたと不格好で柔らかい字でしたためていた。
同時に旅の先々で色々な人と出会った。
俊敏なミコッテ族、大柄で力強いルガディン族、聡明なエレゼン族、小柄だが器用なララフェル族、隣で歩む彼と同じ、他種族の文化に貪欲で柔軟なヒューラン族。それに蛮族と呼ばれる亜人たち。
いい人も悪い人もいた。気の合う人もいればそうでもない人もいた。何かを背負う人もいれば自由に生きている人もいた。
世界の大半を巡った頃、彼女は一つやりたいことを見つけていた。それをヒューランの彼に告げると彼とはそこで別れている。何故かは手記にも残っていない。ただ別れたという事実が記されているだけだ。
彼女はあちこちの、種族にかかわらず色んな人を集めた。共通していたのはみな居場所がなかった。居場所を求めた。止まり木を欲した。そういう人たちだった。
最初は六人、次の年は十二人、二十四人、三十六人と増えていった。どんどん増えて、時々減って、彼女は彼女たちとなった。一つの移動民族が誕生した瞬間だった。どうしてそのようなことをしたのか、彼女は手記に綴っている。
『誰かと笑っている世界の中で、いつだって誰かが一人で生きている。好んで一人でいるのかもしれないけれども、そんな人だって止まり木が欲しいでしょう。何より一人はとても心細いでしょう。私はそんな人たちの家になりたかった。』
彼女は孤独を恐れていたのだ。そんな人たちの寄り添える場所が欲しいと思ったのだ。自分は旅人だった彼に救われた、けれども他の人は?一人寂しくいるのかしら。そんなことはとても悲しいことだと、彼女はそう思ったのだろう。
そしてその手記には、一枚の羊皮紙が挟まっている。
『ここにいることが窮屈なら旅立っていけばいい。疲れたなら帰ってこればいい。誰かの歩みの力になりたい。ひとりぼっちの誰かがひとりぼっちじゃなくなって誰かと笑える最初の一歩になればいい。忘れないで。私は、私たちはいつだってここにいる。』
―――
――
―
「『私たちはディアの一家。一族なんて、堅苦しい言い方しなくてもいいのでしょう?私たちは家族で良き友なのだから』それが初代ディアの一家の女当主の言葉だ」
アベルが語り終えるとニコラスの頭がかくんと揺れる。ああ、寝たのかと苦笑して抱き直しベッドへ連れて行く。
諸説あるがそれが今のディアの一家に伝わるディア創立の逸話である。そのせいかアベルの一族は割合的にアウラ・ゼラが若干多い多種民族となっている。皆が皆ではないけれども陽気でおおらかでよく笑う。
突然家族が増えることもあればやりたいことが見つかったからと旅立っていくものもいる。ざっくばらんに言えば来る者拒まず去る者追わずだし、ディアの中で友から家族になるものも少なくない。世界を回っているのはおそらく初代当主が旅を続けた名残だろうと言われていたり。まあこのあたりはアベルの一族に興味を持った考古学博士に協力した時伝えたことではあるが。今の当主は腕相撲で決まったらしいと言った時の博士の顔は暫く笑えそうなくらい呆気に取られていたっけ。
権威への欲求が非常に低く、けれども世界を回る旅の商売人の一族故に代表を取らなければ色々と面倒だとはわかっている。が、基本誰がなってもディアはディアのままなので毎回当主決めは適当だ。神経質な人とは一緒にいさせられないなと思ったのは旅に出たばかりの頃だったか。
ニコラスに布団をかけながらなんとなくディアが恋しくなって久々に帰ろうかな、なんて思えるくらいにはアベルも自分の一族を愛している。
『ディア』とは、親愛という意味である。明日の友、良き隣人、未来の家族へ。――日溜まりのような、親愛を。畳む
#FF14 #自機
我らの親愛、此処に有り
「ねえねえアベル、アベルの一族の話を聞かせて」
ニコラスのその言葉にまたかと呆れ半分微笑ましさ半分で笑みが溢れる。アベルとしては何度も語ってしまい少々飽きている上それが自分の生まれのことだから妙な羞恥心に苛まれるので御免被りたい。しかし愛しの妻がそれを望んでいるのなら、と随分中身の少なくなったグラスをテーブルに置いてあぐらをかいた上に座り込んでいるニコラスを抱きしめる。話の終盤で舟を漕ぐのはかなり前から知っていた。
「本当にこの話好きだな、ニコは」
「うん、好きなの。寝物語にもちょうどいいしね~」
「はいはい。寝たかったら好きなときに寝てください」
はぁい、と言いながらもたれ掛かってくる重みを腹で受けながらアベルは口を開いた。
*
それは、昔々のお話だ。誰も覚えていないアウラ・ゼラの女性が、アジムステップで生きる自分の種族から逃げ出した。理由はわからない。謀略だとも夜逃げだとも、駆け落ちだとも言われているが真相はどこにも記されていない。とにかくその女性はそこから逃げ出した。
逃げて、逃げて。乗っていた馬が過労で息絶え食料が尽き水が枯れても彼女は逃げ続けて、今で言うオサード地方から遠く離れたイシュガルドの地で倒れふした。
その時の彼女は己の一族からではなく竜詩戦争真っ只中だったイシュガルドの民に角と尾のせいでドラゴン族の手先だと追われていた。ドラゴンとイシュガルディアンに追われて力尽きた彼女を救ったのはヒューラン族の旅人だったと伝わっている。
そこから彼女と彼の逃亡ではない、世界を巡る旅が始まった。同じ頃彼女は彼に教わりながら己の一族にはなかった文化である文字に触れていたからか、手記を残している。初めて見る海、吹き荒れる砂嵐、空も覆う木々のさざめき。全てが彼女にとって初めてで、心を動かしたと不格好で柔らかい字でしたためていた。
同時に旅の先々で色々な人と出会った。
俊敏なミコッテ族、大柄で力強いルガディン族、聡明なエレゼン族、小柄だが器用なララフェル族、隣で歩む彼と同じ、他種族の文化に貪欲で柔軟なヒューラン族。それに蛮族と呼ばれる亜人たち。
いい人も悪い人もいた。気の合う人もいればそうでもない人もいた。何かを背負う人もいれば自由に生きている人もいた。
世界の大半を巡った頃、彼女は一つやりたいことを見つけていた。それをヒューランの彼に告げると彼とはそこで別れている。何故かは手記にも残っていない。ただ別れたという事実が記されているだけだ。
彼女はあちこちの、種族にかかわらず色んな人を集めた。共通していたのはみな居場所がなかった。居場所を求めた。止まり木を欲した。そういう人たちだった。
最初は六人、次の年は十二人、二十四人、三十六人と増えていった。どんどん増えて、時々減って、彼女は彼女たちとなった。一つの移動民族が誕生した瞬間だった。どうしてそのようなことをしたのか、彼女は手記に綴っている。
『誰かと笑っている世界の中で、いつだって誰かが一人で生きている。好んで一人でいるのかもしれないけれども、そんな人だって止まり木が欲しいでしょう。何より一人はとても心細いでしょう。私はそんな人たちの家になりたかった。』
彼女は孤独を恐れていたのだ。そんな人たちの寄り添える場所が欲しいと思ったのだ。自分は旅人だった彼に救われた、けれども他の人は?一人寂しくいるのかしら。そんなことはとても悲しいことだと、彼女はそう思ったのだろう。
そしてその手記には、一枚の羊皮紙が挟まっている。
『ここにいることが窮屈なら旅立っていけばいい。疲れたなら帰ってこればいい。誰かの歩みの力になりたい。ひとりぼっちの誰かがひとりぼっちじゃなくなって誰かと笑える最初の一歩になればいい。忘れないで。私は、私たちはいつだってここにいる。』
―――
――
―
「『私たちはディアの一家。一族なんて、堅苦しい言い方しなくてもいいのでしょう?私たちは家族で良き友なのだから』それが初代ディアの一家の女当主の言葉だ」
アベルが語り終えるとニコラスの頭がかくんと揺れる。ああ、寝たのかと苦笑して抱き直しベッドへ連れて行く。
諸説あるがそれが今のディアの一家に伝わるディア創立の逸話である。そのせいかアベルの一族は割合的にアウラ・ゼラが若干多い多種民族となっている。皆が皆ではないけれども陽気でおおらかでよく笑う。
突然家族が増えることもあればやりたいことが見つかったからと旅立っていくものもいる。ざっくばらんに言えば来る者拒まず去る者追わずだし、ディアの中で友から家族になるものも少なくない。世界を回っているのはおそらく初代当主が旅を続けた名残だろうと言われていたり。まあこのあたりはアベルの一族に興味を持った考古学博士に協力した時伝えたことではあるが。今の当主は腕相撲で決まったらしいと言った時の博士の顔は暫く笑えそうなくらい呆気に取られていたっけ。
権威への欲求が非常に低く、けれども世界を回る旅の商売人の一族故に代表を取らなければ色々と面倒だとはわかっている。が、基本誰がなってもディアはディアのままなので毎回当主決めは適当だ。神経質な人とは一緒にいさせられないなと思ったのは旅に出たばかりの頃だったか。
ニコラスに布団をかけながらなんとなくディアが恋しくなって久々に帰ろうかな、なんて思えるくらいにはアベルも自分の一族を愛している。
『ディア』とは、親愛という意味である。明日の友、良き隣人、未来の家族へ。――日溜まりのような、親愛を。畳む
#FF14 #自機
FF14新生エオルゼア2.0及びジョブクエスト:戦士レベル50までのネタバレを含みます。
戦士になった日
――この日、一つの闘争心が産声を上げた。
「「弱い」オメなんて!兄者じゃねえ!!オラの夢は!誰にも邪魔させねえ!!」
そんな咆哮とそのあとに続く剣戟を、アベルは聞いた。
戦士を復興させるのが夢だと、人懐っこい笑顔を浮かべてそういったのはキュリアス・ゴージという、戦士の里の出の男だった。自分も斧を使うからと共に始めたその理想への歩みはいつしかアベルを斧術士から戦士へと変えていた。だからだろうか、彼の夢へ共に歩むのがとても心躍る日々となり、いつしか戦士が本当に世界に認められれば、と思うようになった。
そんな彼が、飲まれているような、悲鳴のような咆哮を上げた。
嫌な予感を抱いてたアベルは真っ赤な古の戦装束を纏いワインポートまでの道を駆け抜ける。
嫌な予感ほど当たるとはよく言ったもので、アベルが駆けつける頃にはキュリアス・ゴージとその兄の雌雄は決していた。
倒れているのが彼の兄だろうことは聞かずともわかる。しかしゆっくりとアベルを見たキュリアス・ゴージのその目は理性を失いただ爛々と輝いていた。
「キュリアス・ゴージ…!」
「許さねえ…邪魔させねえ…「古の戦装束」は…全部…オラんだ…」
「違うだろう!あんた、自分の夢も忘れたのか!?そんなもののために動いてきたわけじゃないだろう!俺たちは!」
「オメのじゃねえ!今すぐ返せ!!」
アベルの声が届かないまま、キュリアス・ゴージが斧を振り上げる。咄嗟に自分も構えて受け止めていなければ真っ二つになっていたのはアベルの方だった。上から重くのしかかる重圧にアベルはギリ、と奥歯を噛み締める。
純粋な力勝負ではアウラとルガディンという種族差でアベルが劣る。このままでは押し負ける、と咄嗟にキュリアス・ゴージの腹を蹴り距離を取る。
吹き飛ばされたキュリアス・ゴージはそれをものともせず、ただ飲まれるままにアベルへ再び斧を振り上げる。今度は受け止めずにいなして流し、反撃する。
持ち手の部分であご下を狙うが理性を失っている彼にどこまで効果があるか。この小手先技が通用するのか。そんなアベルの不安は的中し、脳震盪を狙ったその一撃は難なく躱され下に振り下ろされた斧は振り上がり際にアベルの頬を掠めていく。
これは、相手の心配をしている余裕はない。
そう判断したアベルは防御の構えを解いた。代わりに攻め込むべく腰を深く落としキュリアス・ゴージの懐へと突っ込む。
狙うは胴体だった。彼を痛めつけるのでは?という懸念は無理やり頭の隅に追いやり下段から切り上げる。身体を無理やり逸らして躱され、彼の鎧に傷をつけるだけに終わったが体制を崩したところを更に踏み込み、斧を振り下ろす。
先ほどとは体制が逆になる。せめぎ合う中、キュリアス・ゴージの瞳に一瞬だけ理性が戻ったのをアベルは見逃さなかった。
「キュリアス・ゴージ!」
「う、ぐぅ…ッ!逃げ、ろ…!このままじゃ、オラ、オメを殺しちまう…!」
「馬鹿野郎!何を言ってる!」
「オラは、オラは…原初の魂を、制御できねえ…!バケモノみたいになっちまう…!オラの、ゆめは…もう…!」
悲しげに歪んだ、飲まれかけの瞳がアベルを見た。その瞬間、アベルの内側で何かが爆発した。
――何か、ではない。アベルの想い、そのものが。
「ふっざ、けるなああああああああああああああああああッ!!!」
思い切りキュリアス・ゴージを吹き飛ばし守りの構えととったそこに、アベルはこれ以上ないくらいに斧を叩きつけた。自分の想いが届いて欲しいと、切に願って。
「なんでそう簡単に諦めようとしてる!復興させたいと言っていたじゃないか!!ッ、一緒に、戦士を認めてもらおうと!!ここまで歩んできたじゃないか!」
「ッ、あ、べる」
「今更お前だけの夢だなんて言わせるか!!――俺たちの夢だろうが!!諦めさせるか!!呑まれるなら何度でも引っ張ってやる!!お前が!!お前が本当の戦士になるまで何度だって!!!」
「っ、グ、ぁ」
「だから、ッ、だから勝手に諦めるな!!」
技もへったくれもない、ただ斧を不器用に一心不乱に振り回す。
――いつものように、流されるままに見た夢に何を熱くなっているのだろう。いつものように適当に流されて、適当に行き着く先へ行けばいいのに、何を自分は踏みとどまっているのだろう。
ワインポートへの道を駆け抜ける間、アベルはずっと疑問に思っていたことだ。自我が薄いのは自他共に認める事実で、自分もそれでいいと思っていた。
自我が強いのは、辛いことだと思っていた。
流されるだけなら、後悔だってない楽な道だった。
いつものように、大きな流れに身を任せていれば良かったのだ。
――本当は。
(楽な方に逃げていたのは俺の方だった)
夢を語るキュリアス・ゴージの姿に羨望に近い何をを抱いた。
(流されていればよかった?今までどおり?)
呑まれ溺れそうになりながら、それでもアベルに逃げろという彼に尊敬を抱いた。
剣戟を響かせながらキュリアス・ゴージとアベルはぶつかり合う。アベルの一閃で篭手を吹き飛ばし腕を斬られながら。キュリアス・ゴージの一撃で吹き飛び、頭をしたたかに打ち付け血を流しながら。視界の半分を赤く染め、ぐらつく頭でアベルはよたりと立ち上がる。
思い出せ、なんでこんな旅路についたかを。己の主軸を。そしてその先々で生まれて育った思いを。
(――そんなことで、ニコラスを守れるものか…違う、それだけじゃない)
兄ちゃんみたいな冒険者になるよ、といった少年を思い出す。
ベルはおっきいのに優しいなぁ、と朗らかに笑う友を思い出す。
二人共、俺よりも強かったじゃないか。その時に思ったじゃないか。
彼女の存在は大きかった。けれども、今この時は自分に生まれた思いのが強かった。
(負けたく、ない)
「ッ、オオ、オオオオオオオオオオオ!!!」
闘争心が、魂の底から咆哮を上げる。再び呑まれたキュリアス・ゴージに向かって低く、早く突っ込んでいく。
共に歩もうと言ってくれた彼だからこそ、負けたくなかった。力に呑まれたままのキュリアス・ゴージに負けるわけには行かなかった。
生まれて初めて、アベルの内に勝利への執着が湧き上がる。
低姿勢で突っ込み、更にそこからぐんっと身を低く下ろす。両足を踏ん張り、床石を踏み抜かん勢いで力を込め、放たれた矢のように振り上げられた斧が、今度はキュリアス・ゴージの斧を裂いて吹き飛ばす。
キュリアス・ゴージも負けてはいなかった。大きくのけぞった姿勢を無理やり立て直し勢いよく斧を突き出す。アベルは咄嗟に避けるが避けきれず脇腹を大きく抉っていく。鮮血がキュリアス・ゴージの斧とアベルの顔に掛かる。
遅れてやってきた激痛にアベルが一瞬怯んだところを容赦のない一撃が襲いかかる。それを咄嗟に斧で受け溢れる赤に構わず踏ん張る。
ぼたぼたと垂れる血は、キュリアス・ゴージのものなのかアベルのものなのか。それすら判断できないほどに赤く広く広がっていく。
それなのにアベルは、笑っていた。
キュリアス・ゴージが一瞬怪訝な顔をする。その場違いなまでに穏やかな、それでいてぎらついた笑みの意味が分からずに。
「…強いな、あんたは」
掠れた、今にも消え入りそうな声が血の匂いに混ざって吐き出される。
正直、痛みも痺れ、手足に感覚がなかった。今すぐ地面に転がって目を閉じてしまいたかった。頭から流れる血も止まる気配がせず、掠めただけとはいえ肉を持っていく斧の一撃はアベルの四肢を浅からず裂いていた。
「…俺は、あんたに、勝ちたい」
ただ、痛みよりもその思いが何よりも強くて気にならなくなってしまったのだ。
「あんたに『戦士』として、勝ちたいッ!!」
思い切り、拮抗していた小競り合いを押し返す。よろめいたキュリアス・ゴージへと突っ込み、先ほど切り上げたほうとは逆の一閃を振り下ろす。
太い悲鳴と共に、キュリアス・ゴージの巨体が地に倒れる。
アベルもキュリアス・ゴージも満身創痍だった。それでもアベルは倒れるどころか、片膝もつかなかった。
溢れる歓喜は、初めて望み、得た勝利だからか。それともキュリアス・ゴージという男と戦えたという悦びか。今にも震えて砕けそうな膝は、しかししっかりと大地を踏みしめていて。
「――俺の、勝ちだ!!!」
アベルの勝鬨は、濃紺の星空に轟いた。
*
「本当に、わるかった…」
「もういいって、気にしすぎんだ。アベルは」
アベルとキュリアス・ゴージが顔を合わせたのはワインポートでの戦いから三日後だった。あのあと見事にぶっ倒れたアベルは連絡を受けたレイに運ばれたっぷり一晩目を覚まさなかった。目覚めたら開幕レイのげんこつとリコのビンタ、アキのタックルにルカの嫌味のオンパレード、更には呆れたようなヴィヴィアンのため息にフィオナの意味不明の妄言、止めにニコラスの「アベルのばか!!ばかばかばか!!!」という可愛らしいお叱りのもと外出許可をなんとかもらい今に至る。
「…キュリアス・ゴージ…その、あんたの兄は」
「…ああ、無事だ。ただ…怪我のせいで戦士を続けることは難しくなっちまった…オラが、呑まれちまったからだ」
「…けど、諦めるつもりはないんだろう?」
アベルが意地悪く聞くと、当然だ!とキュリアス・ゴージは頷いた。
今後の方針としては、兄に戦士の技の解読を続行してもらいアベルとキュリアス・ゴージはその技の習得のために更に鍛えていくということで決まった。
「やっぱり、オメはいちばんの戦士だな」
感心半分、悔しさ半分にそういうキュリアス・ゴージにアベルはしばらく沈黙して、首を横に降る。
「…いや、まだわからないぞ」
「え?でもオメは原初の魂の制御もできてたろ?そんで呑まれて暴走しちまったオラを助けて…」
「もし、これから先…あんたが原初の魂を制御できたなら?」
「…!」
アベルが言わんとすることがわかったのだろう、キュリアス・ゴージの澄んだ目が大きく見開かれる。
アベルも、口角を釣り上げる。いつもの穏やかな笑みではない、好戦的な光さえ宿した赤い双眸はキュリアス・ゴージをまっすぐ見た。
「…俺はそんなあんたと戦いたい。そして勝ちたい。だからその時まで『いちばんの戦士』は」
「ああ、お預けだな!」
ごつん、と突き出された拳に自分のそれをぶつける。次に戦う時は、絶対に同じ土俵に立っていようと誓う。そして。
「次は絶対、オラが勝つ!」
「そのセリフ、そっくりそのまま返すぞ…俺が勝つ!」畳む
#ネタバレ #FF14 #自機
戦士になった日
――この日、一つの闘争心が産声を上げた。
「「弱い」オメなんて!兄者じゃねえ!!オラの夢は!誰にも邪魔させねえ!!」
そんな咆哮とそのあとに続く剣戟を、アベルは聞いた。
戦士を復興させるのが夢だと、人懐っこい笑顔を浮かべてそういったのはキュリアス・ゴージという、戦士の里の出の男だった。自分も斧を使うからと共に始めたその理想への歩みはいつしかアベルを斧術士から戦士へと変えていた。だからだろうか、彼の夢へ共に歩むのがとても心躍る日々となり、いつしか戦士が本当に世界に認められれば、と思うようになった。
そんな彼が、飲まれているような、悲鳴のような咆哮を上げた。
嫌な予感を抱いてたアベルは真っ赤な古の戦装束を纏いワインポートまでの道を駆け抜ける。
嫌な予感ほど当たるとはよく言ったもので、アベルが駆けつける頃にはキュリアス・ゴージとその兄の雌雄は決していた。
倒れているのが彼の兄だろうことは聞かずともわかる。しかしゆっくりとアベルを見たキュリアス・ゴージのその目は理性を失いただ爛々と輝いていた。
「キュリアス・ゴージ…!」
「許さねえ…邪魔させねえ…「古の戦装束」は…全部…オラんだ…」
「違うだろう!あんた、自分の夢も忘れたのか!?そんなもののために動いてきたわけじゃないだろう!俺たちは!」
「オメのじゃねえ!今すぐ返せ!!」
アベルの声が届かないまま、キュリアス・ゴージが斧を振り上げる。咄嗟に自分も構えて受け止めていなければ真っ二つになっていたのはアベルの方だった。上から重くのしかかる重圧にアベルはギリ、と奥歯を噛み締める。
純粋な力勝負ではアウラとルガディンという種族差でアベルが劣る。このままでは押し負ける、と咄嗟にキュリアス・ゴージの腹を蹴り距離を取る。
吹き飛ばされたキュリアス・ゴージはそれをものともせず、ただ飲まれるままにアベルへ再び斧を振り上げる。今度は受け止めずにいなして流し、反撃する。
持ち手の部分であご下を狙うが理性を失っている彼にどこまで効果があるか。この小手先技が通用するのか。そんなアベルの不安は的中し、脳震盪を狙ったその一撃は難なく躱され下に振り下ろされた斧は振り上がり際にアベルの頬を掠めていく。
これは、相手の心配をしている余裕はない。
そう判断したアベルは防御の構えを解いた。代わりに攻め込むべく腰を深く落としキュリアス・ゴージの懐へと突っ込む。
狙うは胴体だった。彼を痛めつけるのでは?という懸念は無理やり頭の隅に追いやり下段から切り上げる。身体を無理やり逸らして躱され、彼の鎧に傷をつけるだけに終わったが体制を崩したところを更に踏み込み、斧を振り下ろす。
先ほどとは体制が逆になる。せめぎ合う中、キュリアス・ゴージの瞳に一瞬だけ理性が戻ったのをアベルは見逃さなかった。
「キュリアス・ゴージ!」
「う、ぐぅ…ッ!逃げ、ろ…!このままじゃ、オラ、オメを殺しちまう…!」
「馬鹿野郎!何を言ってる!」
「オラは、オラは…原初の魂を、制御できねえ…!バケモノみたいになっちまう…!オラの、ゆめは…もう…!」
悲しげに歪んだ、飲まれかけの瞳がアベルを見た。その瞬間、アベルの内側で何かが爆発した。
――何か、ではない。アベルの想い、そのものが。
「ふっざ、けるなああああああああああああああああああッ!!!」
思い切りキュリアス・ゴージを吹き飛ばし守りの構えととったそこに、アベルはこれ以上ないくらいに斧を叩きつけた。自分の想いが届いて欲しいと、切に願って。
「なんでそう簡単に諦めようとしてる!復興させたいと言っていたじゃないか!!ッ、一緒に、戦士を認めてもらおうと!!ここまで歩んできたじゃないか!」
「ッ、あ、べる」
「今更お前だけの夢だなんて言わせるか!!――俺たちの夢だろうが!!諦めさせるか!!呑まれるなら何度でも引っ張ってやる!!お前が!!お前が本当の戦士になるまで何度だって!!!」
「っ、グ、ぁ」
「だから、ッ、だから勝手に諦めるな!!」
技もへったくれもない、ただ斧を不器用に一心不乱に振り回す。
――いつものように、流されるままに見た夢に何を熱くなっているのだろう。いつものように適当に流されて、適当に行き着く先へ行けばいいのに、何を自分は踏みとどまっているのだろう。
ワインポートへの道を駆け抜ける間、アベルはずっと疑問に思っていたことだ。自我が薄いのは自他共に認める事実で、自分もそれでいいと思っていた。
自我が強いのは、辛いことだと思っていた。
流されるだけなら、後悔だってない楽な道だった。
いつものように、大きな流れに身を任せていれば良かったのだ。
――本当は。
(楽な方に逃げていたのは俺の方だった)
夢を語るキュリアス・ゴージの姿に羨望に近い何をを抱いた。
(流されていればよかった?今までどおり?)
呑まれ溺れそうになりながら、それでもアベルに逃げろという彼に尊敬を抱いた。
剣戟を響かせながらキュリアス・ゴージとアベルはぶつかり合う。アベルの一閃で篭手を吹き飛ばし腕を斬られながら。キュリアス・ゴージの一撃で吹き飛び、頭をしたたかに打ち付け血を流しながら。視界の半分を赤く染め、ぐらつく頭でアベルはよたりと立ち上がる。
思い出せ、なんでこんな旅路についたかを。己の主軸を。そしてその先々で生まれて育った思いを。
(――そんなことで、ニコラスを守れるものか…違う、それだけじゃない)
兄ちゃんみたいな冒険者になるよ、といった少年を思い出す。
ベルはおっきいのに優しいなぁ、と朗らかに笑う友を思い出す。
二人共、俺よりも強かったじゃないか。その時に思ったじゃないか。
彼女の存在は大きかった。けれども、今この時は自分に生まれた思いのが強かった。
(負けたく、ない)
「ッ、オオ、オオオオオオオオオオオ!!!」
闘争心が、魂の底から咆哮を上げる。再び呑まれたキュリアス・ゴージに向かって低く、早く突っ込んでいく。
共に歩もうと言ってくれた彼だからこそ、負けたくなかった。力に呑まれたままのキュリアス・ゴージに負けるわけには行かなかった。
生まれて初めて、アベルの内に勝利への執着が湧き上がる。
低姿勢で突っ込み、更にそこからぐんっと身を低く下ろす。両足を踏ん張り、床石を踏み抜かん勢いで力を込め、放たれた矢のように振り上げられた斧が、今度はキュリアス・ゴージの斧を裂いて吹き飛ばす。
キュリアス・ゴージも負けてはいなかった。大きくのけぞった姿勢を無理やり立て直し勢いよく斧を突き出す。アベルは咄嗟に避けるが避けきれず脇腹を大きく抉っていく。鮮血がキュリアス・ゴージの斧とアベルの顔に掛かる。
遅れてやってきた激痛にアベルが一瞬怯んだところを容赦のない一撃が襲いかかる。それを咄嗟に斧で受け溢れる赤に構わず踏ん張る。
ぼたぼたと垂れる血は、キュリアス・ゴージのものなのかアベルのものなのか。それすら判断できないほどに赤く広く広がっていく。
それなのにアベルは、笑っていた。
キュリアス・ゴージが一瞬怪訝な顔をする。その場違いなまでに穏やかな、それでいてぎらついた笑みの意味が分からずに。
「…強いな、あんたは」
掠れた、今にも消え入りそうな声が血の匂いに混ざって吐き出される。
正直、痛みも痺れ、手足に感覚がなかった。今すぐ地面に転がって目を閉じてしまいたかった。頭から流れる血も止まる気配がせず、掠めただけとはいえ肉を持っていく斧の一撃はアベルの四肢を浅からず裂いていた。
「…俺は、あんたに、勝ちたい」
ただ、痛みよりもその思いが何よりも強くて気にならなくなってしまったのだ。
「あんたに『戦士』として、勝ちたいッ!!」
思い切り、拮抗していた小競り合いを押し返す。よろめいたキュリアス・ゴージへと突っ込み、先ほど切り上げたほうとは逆の一閃を振り下ろす。
太い悲鳴と共に、キュリアス・ゴージの巨体が地に倒れる。
アベルもキュリアス・ゴージも満身創痍だった。それでもアベルは倒れるどころか、片膝もつかなかった。
溢れる歓喜は、初めて望み、得た勝利だからか。それともキュリアス・ゴージという男と戦えたという悦びか。今にも震えて砕けそうな膝は、しかししっかりと大地を踏みしめていて。
「――俺の、勝ちだ!!!」
アベルの勝鬨は、濃紺の星空に轟いた。
*
「本当に、わるかった…」
「もういいって、気にしすぎんだ。アベルは」
アベルとキュリアス・ゴージが顔を合わせたのはワインポートでの戦いから三日後だった。あのあと見事にぶっ倒れたアベルは連絡を受けたレイに運ばれたっぷり一晩目を覚まさなかった。目覚めたら開幕レイのげんこつとリコのビンタ、アキのタックルにルカの嫌味のオンパレード、更には呆れたようなヴィヴィアンのため息にフィオナの意味不明の妄言、止めにニコラスの「アベルのばか!!ばかばかばか!!!」という可愛らしいお叱りのもと外出許可をなんとかもらい今に至る。
「…キュリアス・ゴージ…その、あんたの兄は」
「…ああ、無事だ。ただ…怪我のせいで戦士を続けることは難しくなっちまった…オラが、呑まれちまったからだ」
「…けど、諦めるつもりはないんだろう?」
アベルが意地悪く聞くと、当然だ!とキュリアス・ゴージは頷いた。
今後の方針としては、兄に戦士の技の解読を続行してもらいアベルとキュリアス・ゴージはその技の習得のために更に鍛えていくということで決まった。
「やっぱり、オメはいちばんの戦士だな」
感心半分、悔しさ半分にそういうキュリアス・ゴージにアベルはしばらく沈黙して、首を横に降る。
「…いや、まだわからないぞ」
「え?でもオメは原初の魂の制御もできてたろ?そんで呑まれて暴走しちまったオラを助けて…」
「もし、これから先…あんたが原初の魂を制御できたなら?」
「…!」
アベルが言わんとすることがわかったのだろう、キュリアス・ゴージの澄んだ目が大きく見開かれる。
アベルも、口角を釣り上げる。いつもの穏やかな笑みではない、好戦的な光さえ宿した赤い双眸はキュリアス・ゴージをまっすぐ見た。
「…俺はそんなあんたと戦いたい。そして勝ちたい。だからその時まで『いちばんの戦士』は」
「ああ、お預けだな!」
ごつん、と突き出された拳に自分のそれをぶつける。次に戦う時は、絶対に同じ土俵に立っていようと誓う。そして。
「次は絶対、オラが勝つ!」
「そのセリフ、そっくりそのまま返すぞ…俺が勝つ!」畳む
#ネタバレ #FF14 #自機
眠り熊様主催「文章力を鍛えたい」への参加作品
世界観:時代劇風の世界
三題お題:文学/雨/無二の存在
雨招き
閉ざしていた国が開け、全てが動き出す不安定な時代に生きていたそいつは、何処にでも居るような、平々凡々で、争いごとが苦手。飛び抜けた能力も何もない男だった。親から独り立ちした後は売れない文字書きとその日暮らし、日雇いの仕事をするばかり。当然遠くになど行ける銭があるわけもなく、だからといってこれ以上のことをすると文章が、物語が綴れない。日暮の早い冬などは、特に。油が広まって来ていたとはいえ、庶民である男は大量に使う事を良しとしなかった。
仕事から帰ればくたくたの身体に鞭打って、握り飯や漬物を適当に食らい、又は薄い汁物を欠けた茶碗で啜りながら筆を取り、文字を綴っては墨を滲ませた紙をくしゃりと潰して放り捨てる。そうやって紙屑を増やしてその中で眠り、明るくなれば目を開けて仕事へ向かう。時々完成した物語は、売れない。そうなると、その日は囲炉裏で一枚一枚、荼毘に伏す様に火に焚べていた。
そんな単調で、生きていると言うには小火(ぼや)の様に、目立たない男だった。
雨が降っていた。梅の実が膨らみ、間も無く百姓たちがこぞって獲りこむのだろう。雨も降らない日すら、灰色の雲が毎日のように厚く天を覆って、空気を湿らせている。
雨が続いていた。男の目立たない生活も燻る様に続いていた。身体の節々に痛みが走り思う様動き回れない。男は雨が嫌いだった。時折煩わしそうに灰色を睨みつける。睨みつけたからと言って空が青に染まる訳でもなく、男の気分も晴れることはない。
そんな日が続いた、雨の夜だった。小火が揺れる様な、そんな細やかな非日常が男の前に倒れていたのは。
茶色と黒と、白。まだらの毛並みを持つ小さな生き物が雨と泥に塗れて倒れて伏せている。脚はあらぬ方向へと曲がり、顔にはしつこいくらい泥がこびりついている。本来は艶やかだろう毛並みを黒く汚していた。
男は慌てて駆け寄った。平々凡々な男は目の前で息絶えそうな生き物の、その命が潰える所を見てはいられなかった。そうっと両手で掬い上げて、くったりと動かない生き物にばくばくと心の臓が駆け回る。
そうして、男が拾って来たのは痩せ細った三毛猫だった。男は仕事の合間、筆を取る合間に彼女の様子を診ては死んでしまいやしないだろうか、と冷や冷やした。そういった詳しい者へ診てもらう、という考えは不思議と思いつかなかった。手拭いを割いて、曲がった脚に板を当てて巻きつける。泥で汚れた身体を洗い拭ってやれば力無く閉じた目元からは目やにが消える。漸く猫らしい顔を拝めたと、ここで一旦安心したものだ。
身体も綺麗になり、穏やかに上下する腹にほう、と息を吐く。愛らしい、とは思わなかった。ただ生きていて良かったと安堵した。
しかし、そのまま始まった同居猫との生活は彼女の寝姿程穏やかなものではなかった。まず、気を許してくれない。彼女は男が白飯に味噌だけを溶かした味噌汁をかけたものを持って近寄ろうものならしゃあ、と空気が疾る様な声をあげ、折れている脚の手当てをしようものなら引っ掻かれた。日雇いの仕事から戻れば、半紙をあたりに散らし男を辟易させた。
けれども男は猫を追い出さなかった。怪我が癒えていないのもそうだが、雨が続いていたからだ。正直に言うと、男は何度か放り出してやろうとは思ったのだ。しかし、拾ったあの日の濡れぼそり泥に塗れ、息も絶え絶えの姿が脳裏に浮かんで、追い出してやろうと言う気持ちも萎れる。
それに、猫が浅く眠る前でだと不思議と筆が進むのだ。書いては消し、一作生むのも苦労していたのが一作でき、また生まれ、そうして少しずつ男の物語は売れて行った。
少し癪だが、自分以外の呼吸が聞こえるのは不思議と落ち着く……暴れられるのは、ごめんだが。
そんな少し騒がしくなった日が続いたある日、男は魚売りから魚とかつぶしを買った。仕事は相変わらずだが、物語が売れるようになって少しばかり懐が暖かくなったからだ。毛が抜けて墨を上手く吸えなくなった筆から新しい筆に、押さえに使っていた石から文鎮へと買い換える。その礼という訳ではないが、猫へ何か贈りたくなったのだ。帰宅して、かつぶしを刃こぼれした包丁で削る。最初男にしゃあ、と泣いたきり睨みつけていた猫は、かつぶしの匂いを嗅ぎ取ったのかぴくりと耳をそちらに向けて、男の挙動を見つめていた。
薄く削ったかつぶしを白飯へかけて、菜葉の入った味噌汁をかけて猫の方へやる。猫は、いつも男を警戒して男が寝た後で食べているらしい。だが、今日は違った。
ちら、ちら。忙しなく男と飯を見た後に茶碗へ顔を突っ込んでそのままがっつき出した。余程腹が減っていた、と言えばそれまでだ。しかし、男は緩む口元を抑えられなかった。
今の今迄、ずっと警戒して、唸って、拒絶されてきたのだ。目の前で飯を食わない程に。それが、目の前で飯を食っている。ただそれだけの事が男の心を優しく揺らした。
それからは、共に飯を食う様になった。
手当ての際、痛みから噛みつくことはあれど、その後男がそばにいても猫は唸る事はなく、偶に触れればごろりと喉を鳴らす。怪我が癒え、歩き回る様になる頃には猫から男の膝に座る事が多くなった。時折疎ましくなることもあるが、来なければ来ないで好きにさせている。長屋の石かべを掻いたり、水瓶の上へ乗り涼んでいたり。気ままな彼女の姿を見て、男の筆も進む。
小さな波の様だった。平凡で凪いでいる生活が、心地の良い揺らぎのような。しとしと降り注いでは水溜りに立つ波紋の様な。仕事に行くのも物を書くのも相変わらずだが、心地良かった。
晴れた日の事だった。男が仕事から戻ると長屋が燃えていた。後に聞いた話だとどうやら近所小火が起き、瞬く間に燃え広がったらしい。慌てて元の住処の焼け跡を探す。見つけたかったのは、少ない財でも、新しくした筆でも、気に入っていた文鎮でもない。猫だった。
ねこ、ねこ、と探し回ったがついぞ彼女の姿も骸も見つけることは叶わなかった。
また、凪いだ日々が始まった。新しく借りた住処から仕事に通い、筆を取っては紙屑を増やす。違ったのは、ひとつも物語を完成させられなくなったことだった。何枚も何枚も半紙を黒く汚して捨てていく。いつしか、男は筆を取らなくなった。使われなくなった半紙は火に焚べてしまい、硯で墨を擦ることもなくなった。筆は箪笥の奥へ無造作に入れられる。
生きなくてはならないから仕事だけはした。仕事をして、帰って飯を食らい、寝る。以前に書いていた物語のわずかな収入もいつの間にかなくなっていた。
幾度か同じ季節が巡ったある日の夜。その日もしとしとと雨が降っていた。今年の梅雨は気まぐれだ、だなんて話していたのはどこの誰だったか。そんなことを考えながら寝支度をしているとかりかり、かりかりと戸から音がする。なんだ、こんな夜中に。もののけか? 物取りか? それならそれで構わない。自分はすっかり落ちぶれた。筆も長く取ってはいない、その日暮らしを繰り返して、蓄えだってない。取られるものだって、自分のしようも無い命だけ。だから、怖くない——いや、少し怖いか。そんなことを思いながら戸をひいた。
引いた瞬間、男の目はまんまるに広がって、その足元からにゃおん、と一声。どこか不満そうに響いた。
目の前には、久しく見ることの無かった三色の斑目。大きいのがひとつと、小さいのがよっつ。ころころと転がる泥だらけの命を男は両手で掬って、泣いた。
雨の日が続いた。男は以前の長屋にはもう居ない。武家程では無いが、立派な屋敷に一人と五匹で生きている。
あの時の様に、泥だらけの傷だらけの猫たちを家に入れて洗って、手当てをし、汁物を掛けただけの粟を出してやる。子供たちはそれに食い付いたが、彼女は不満げになぉん、と鳴いて男を見上げる。以前は白米だったのに、と言われている様で。それが懐かしくて、同じものを出してやれないみっともなさで男は泣いた。しょうがないと、のっそり男の膝に掛かった重みと温もりに、また泣いた。
生の凪を終えた男は、今日も筆を執る。傍には三毛猫の彼女が丸くなり耳だけを男に向けていた。
筆先が踊る。
『閉ざしていた国が開け、全てが動き出す不安定な時代に生きていたそいつは、何処にでも居るような、平々凡々で、争いごとが苦手。飛び抜けた能力も何もない男だった。』……。
雨音が、喝采を上げていた。畳む
#三題お題
世界観:時代劇風の世界
三題お題:文学/雨/無二の存在
雨招き
閉ざしていた国が開け、全てが動き出す不安定な時代に生きていたそいつは、何処にでも居るような、平々凡々で、争いごとが苦手。飛び抜けた能力も何もない男だった。親から独り立ちした後は売れない文字書きとその日暮らし、日雇いの仕事をするばかり。当然遠くになど行ける銭があるわけもなく、だからといってこれ以上のことをすると文章が、物語が綴れない。日暮の早い冬などは、特に。油が広まって来ていたとはいえ、庶民である男は大量に使う事を良しとしなかった。
仕事から帰ればくたくたの身体に鞭打って、握り飯や漬物を適当に食らい、又は薄い汁物を欠けた茶碗で啜りながら筆を取り、文字を綴っては墨を滲ませた紙をくしゃりと潰して放り捨てる。そうやって紙屑を増やしてその中で眠り、明るくなれば目を開けて仕事へ向かう。時々完成した物語は、売れない。そうなると、その日は囲炉裏で一枚一枚、荼毘に伏す様に火に焚べていた。
そんな単調で、生きていると言うには小火(ぼや)の様に、目立たない男だった。
雨が降っていた。梅の実が膨らみ、間も無く百姓たちがこぞって獲りこむのだろう。雨も降らない日すら、灰色の雲が毎日のように厚く天を覆って、空気を湿らせている。
雨が続いていた。男の目立たない生活も燻る様に続いていた。身体の節々に痛みが走り思う様動き回れない。男は雨が嫌いだった。時折煩わしそうに灰色を睨みつける。睨みつけたからと言って空が青に染まる訳でもなく、男の気分も晴れることはない。
そんな日が続いた、雨の夜だった。小火が揺れる様な、そんな細やかな非日常が男の前に倒れていたのは。
茶色と黒と、白。まだらの毛並みを持つ小さな生き物が雨と泥に塗れて倒れて伏せている。脚はあらぬ方向へと曲がり、顔にはしつこいくらい泥がこびりついている。本来は艶やかだろう毛並みを黒く汚していた。
男は慌てて駆け寄った。平々凡々な男は目の前で息絶えそうな生き物の、その命が潰える所を見てはいられなかった。そうっと両手で掬い上げて、くったりと動かない生き物にばくばくと心の臓が駆け回る。
そうして、男が拾って来たのは痩せ細った三毛猫だった。男は仕事の合間、筆を取る合間に彼女の様子を診ては死んでしまいやしないだろうか、と冷や冷やした。そういった詳しい者へ診てもらう、という考えは不思議と思いつかなかった。手拭いを割いて、曲がった脚に板を当てて巻きつける。泥で汚れた身体を洗い拭ってやれば力無く閉じた目元からは目やにが消える。漸く猫らしい顔を拝めたと、ここで一旦安心したものだ。
身体も綺麗になり、穏やかに上下する腹にほう、と息を吐く。愛らしい、とは思わなかった。ただ生きていて良かったと安堵した。
しかし、そのまま始まった同居猫との生活は彼女の寝姿程穏やかなものではなかった。まず、気を許してくれない。彼女は男が白飯に味噌だけを溶かした味噌汁をかけたものを持って近寄ろうものならしゃあ、と空気が疾る様な声をあげ、折れている脚の手当てをしようものなら引っ掻かれた。日雇いの仕事から戻れば、半紙をあたりに散らし男を辟易させた。
けれども男は猫を追い出さなかった。怪我が癒えていないのもそうだが、雨が続いていたからだ。正直に言うと、男は何度か放り出してやろうとは思ったのだ。しかし、拾ったあの日の濡れぼそり泥に塗れ、息も絶え絶えの姿が脳裏に浮かんで、追い出してやろうと言う気持ちも萎れる。
それに、猫が浅く眠る前でだと不思議と筆が進むのだ。書いては消し、一作生むのも苦労していたのが一作でき、また生まれ、そうして少しずつ男の物語は売れて行った。
少し癪だが、自分以外の呼吸が聞こえるのは不思議と落ち着く……暴れられるのは、ごめんだが。
そんな少し騒がしくなった日が続いたある日、男は魚売りから魚とかつぶしを買った。仕事は相変わらずだが、物語が売れるようになって少しばかり懐が暖かくなったからだ。毛が抜けて墨を上手く吸えなくなった筆から新しい筆に、押さえに使っていた石から文鎮へと買い換える。その礼という訳ではないが、猫へ何か贈りたくなったのだ。帰宅して、かつぶしを刃こぼれした包丁で削る。最初男にしゃあ、と泣いたきり睨みつけていた猫は、かつぶしの匂いを嗅ぎ取ったのかぴくりと耳をそちらに向けて、男の挙動を見つめていた。
薄く削ったかつぶしを白飯へかけて、菜葉の入った味噌汁をかけて猫の方へやる。猫は、いつも男を警戒して男が寝た後で食べているらしい。だが、今日は違った。
ちら、ちら。忙しなく男と飯を見た後に茶碗へ顔を突っ込んでそのままがっつき出した。余程腹が減っていた、と言えばそれまでだ。しかし、男は緩む口元を抑えられなかった。
今の今迄、ずっと警戒して、唸って、拒絶されてきたのだ。目の前で飯を食わない程に。それが、目の前で飯を食っている。ただそれだけの事が男の心を優しく揺らした。
それからは、共に飯を食う様になった。
手当ての際、痛みから噛みつくことはあれど、その後男がそばにいても猫は唸る事はなく、偶に触れればごろりと喉を鳴らす。怪我が癒え、歩き回る様になる頃には猫から男の膝に座る事が多くなった。時折疎ましくなることもあるが、来なければ来ないで好きにさせている。長屋の石かべを掻いたり、水瓶の上へ乗り涼んでいたり。気ままな彼女の姿を見て、男の筆も進む。
小さな波の様だった。平凡で凪いでいる生活が、心地の良い揺らぎのような。しとしと降り注いでは水溜りに立つ波紋の様な。仕事に行くのも物を書くのも相変わらずだが、心地良かった。
晴れた日の事だった。男が仕事から戻ると長屋が燃えていた。後に聞いた話だとどうやら近所小火が起き、瞬く間に燃え広がったらしい。慌てて元の住処の焼け跡を探す。見つけたかったのは、少ない財でも、新しくした筆でも、気に入っていた文鎮でもない。猫だった。
ねこ、ねこ、と探し回ったがついぞ彼女の姿も骸も見つけることは叶わなかった。
また、凪いだ日々が始まった。新しく借りた住処から仕事に通い、筆を取っては紙屑を増やす。違ったのは、ひとつも物語を完成させられなくなったことだった。何枚も何枚も半紙を黒く汚して捨てていく。いつしか、男は筆を取らなくなった。使われなくなった半紙は火に焚べてしまい、硯で墨を擦ることもなくなった。筆は箪笥の奥へ無造作に入れられる。
生きなくてはならないから仕事だけはした。仕事をして、帰って飯を食らい、寝る。以前に書いていた物語のわずかな収入もいつの間にかなくなっていた。
幾度か同じ季節が巡ったある日の夜。その日もしとしとと雨が降っていた。今年の梅雨は気まぐれだ、だなんて話していたのはどこの誰だったか。そんなことを考えながら寝支度をしているとかりかり、かりかりと戸から音がする。なんだ、こんな夜中に。もののけか? 物取りか? それならそれで構わない。自分はすっかり落ちぶれた。筆も長く取ってはいない、その日暮らしを繰り返して、蓄えだってない。取られるものだって、自分のしようも無い命だけ。だから、怖くない——いや、少し怖いか。そんなことを思いながら戸をひいた。
引いた瞬間、男の目はまんまるに広がって、その足元からにゃおん、と一声。どこか不満そうに響いた。
目の前には、久しく見ることの無かった三色の斑目。大きいのがひとつと、小さいのがよっつ。ころころと転がる泥だらけの命を男は両手で掬って、泣いた。
雨の日が続いた。男は以前の長屋にはもう居ない。武家程では無いが、立派な屋敷に一人と五匹で生きている。
あの時の様に、泥だらけの傷だらけの猫たちを家に入れて洗って、手当てをし、汁物を掛けただけの粟を出してやる。子供たちはそれに食い付いたが、彼女は不満げになぉん、と鳴いて男を見上げる。以前は白米だったのに、と言われている様で。それが懐かしくて、同じものを出してやれないみっともなさで男は泣いた。しょうがないと、のっそり男の膝に掛かった重みと温もりに、また泣いた。
生の凪を終えた男は、今日も筆を執る。傍には三毛猫の彼女が丸くなり耳だけを男に向けていた。
筆先が踊る。
『閉ざしていた国が開け、全てが動き出す不安定な時代に生きていたそいつは、何処にでも居るような、平々凡々で、争いごとが苦手。飛び抜けた能力も何もない男だった。』……。
雨音が、喝采を上げていた。畳む
#三題お題
#CoC #VOID #R18 #うちよそ