小説 2024/11/13 Wed CoC「庭師は何を口遊む」「紫陽花栽培キット」ネタバレ有り。いつかの日の話。続きを読む止まりそうになる足を叱咤して歩を進める。周りにはスーツ姿の人間が男女関係なく忙しそうに行き交い、その風景に懐かしさが少しと気まずさが大半、心を占める。何人かは見たことのある人間だったが、どうやら自分には気づいていないらしい。何人かはちらちらと視線を向けるが、それどころではないらしい。すぐに前を向いたり、通話中の携帯端末に意識を向けている。(案外、スーツ着てればわからないもんなんだな)鯨伏はそんな光景を、少しずれた思考で見ながら歩いていた。かつて、零課で着ていた服装で署の敷地内を歩く。今日こそは目的の人を見つけなければ。これ以上長引いたら戻りたくなくなってしまう。あの居心地のいい家で、最高という言葉すら足りない友人と過ごす日々に甘えて終わってしまう。だから、今日は注意されるまで粘る。気まずさだとか、怯える心だとかそんなものはかつて逃げ出したことのツケなのだ。精算しきれるとは到底思えはしないのだが。そんなことを考えながら、ふと視線をあげて鯨伏は駆け出した。いた、いた!と心が叫ぶ。長身が突然動いたものだからその場にいた数人、もちろん鯨伏が探していた人物も。しっかりと、視線が合う。その表情が驚愕に染まる。「い、鯨伏!?」「――ご無沙汰してます、猪狩さん」鑑識の猪狩幸太郎に軽く頭を下げた。*話がしたいんです。割と大事かも知れない話を。そう鯨伏が猪狩を喫茶店へ誘った。丁度午後から非番だったから、と猪狩もその様子を茶化すことなくついてきてくれる。チェーン店ではなく個人経営の、閑古鳥が鳴いているようなそんな店。取り敢えず珈琲を頼み、テーブル席で向かい合って座る。からん、とアイスコーヒーに入れられた氷が溶けてグラスの中身を緩くかき混ぜる。そんな様子を見ながら鯨伏は黙り込んでいた。(……なにから はなし すれば いい? これぇ……!?)顔面こそ真面目で、そして目を伏せて居る鯨伏だがその脳内は大パニックだった。勇んで来て、神童か猪狩かを探し、ようやく対面でき話をする絶好のチャンスなのに肝心の何を話すかを全く考えていなかったのだ。とにかく動かなければ、早く戻りたいから、戻れなくなる前に。その気持ちだけが早って相手に何を伝え、聞くかを本当に全然考えていなかったのだ。そんな鯨伏に気付いてか、はたまたグラスに水滴が付いてしまうほどの時間を待たされたことにじれてなのか。先に口を開いたのは猪狩の方だった。「アンタ、今何してんの?アンタのとこのチーフから鯨伏のことは長期の休職扱いにしてくれって言われたんだけど」「……」「退職届、出したんだって?ゼロ全員が謹慎中……あれか、スマホわすれたつって俺とあった時?」「うぐ」思わず呻く。そうだった。俺この人に嘘付いたんだった。忘れていた事に対する嫌悪感と罪悪感が腹の底で渦巻く。でも、これは自分でやったことだからと飲み込んで頭を下げる。「嘘、ついてすいませ」「で、いつ戻るの?」「へ?」鯨伏の謝罪を遮って、猪狩が問いかける。一瞬何を言われたのかわからなくて間抜けた顔で彼を見上げると猪狩もまた不思議そうに鯨伏を見ていた。「だってその格好で署に来てた、ってことは戻ってくるんだろ?」「え、あ、その」「違うの? え、マジで辞めるつもり?」「い、いや!ちが、違います!戻ります、戻りたいです!!」え、嘘……俺の読み外れた……!? と大げさに口元を手で覆う猪狩に鯨伏が慌てて前のめりにそう叫ぶ。喫茶店のマスターが迷惑そうに二人を見た。その視線に苦笑いしながら頭を下げて、鯨伏は姿勢を戻す。「……戻りたいんですけど、その前に狗噛さんには話をしたくて」「? じゃあ電話でもなんでもして本人呼び出せばよかったじゃん。なんで直で来てんの?」「前の携帯……解約して……皆の番号諸々無くしまして……」「………アンタ、バカ?」「返す言葉もないです、うっす」しどろもどろにそう返す鯨伏に、猪狩がはぁーーーーーーー、と大げさなくらいにため息を着く。大体おおよそわかったぞ、という表情になったが怯みそうになる己に内心で激励し、鯨伏は言葉を続けた。「その、零課のみんなに会う前に神童さんか猪狩さんに話しておきたいことがあって」「何? 番号だったら普通に教えるけど流石に出戻りの仲介までは俺やらないよ? 多分、アンタが自分でしたいからこうやって来たんだろうし」「はい、それはちゃんと自分で言います。番号もお言葉に甘えて教えて欲しい……ただ、ひとつ調べて欲しいことがあって」「調べる?何を?」訝しむ猪狩の目の前で、鯨伏はシャツのボタンと袖口のボタンをひとつずつ外す。その行動に不可解だ、と視線を向けていた猪狩が目を見張る。息を呑む音がする。はらりと、何かが机に落ちる音がする。鯨伏の耳後ろから首筋を伝い、先程広げたシャツの襟から。緩められた袖口の隙間から鮮やかに紫陽花が咲き誇っていた。人の身体にしっかりと根を張り、瑞々しく咲くそれに言葉を失った猪狩が口をはくはくとさせている。「……これを、的場のものと同じか調べて欲しいんです」「え、は? そ、それはいいけど、なんなの、それ……」「荒唐無稽な話ですけど、聞きます?」狼狽えながらも鯨伏の状態が気になったのだろう、猪狩が頷く。その反応に目を伏せて口を開く。思い返すのは、弱っていた紫陽花を見つけたこと。何日かかけて世話をしたこと。それが幼い少女になって、取り込まれそうになったこと――取り込まれそうになっている間、確かに幸せだったこと。鯨伏は隠し事も嘘も得意ではない。だから包み隠さず全てを話した。傍から聞いていれば荒唐無稽ではすまない、気違いの人間の話に聞こえるだろう。だが、鯨伏は目の前で咲かせてみせたのだ。彼女であった花を。呆気に取られたままの猪狩が、呆然としたまま言葉を吐く。「……同じのかどうか調べて、どうすんの?」「内容次第で、零課に戻ったときみんなに黙っておくか全部言うかを決めます。だって嫌でしょう? あ庭師事件を彷彿させるものがくっついてる奴が居るなんて」「や、まあ……そりゃそうかもだけどさ……でも黙ってなくても、ゼロなら……あの人たちなら受け入れてくれるっしょ?」「俺が嫌なんですよ。皆の目に『庭師』の時の色が混ざるのが」その色は驚愕だった。失望だった。恐怖だった。嫌悪だった。――絶望、だった。当然、その色は自分にもあった。それに押しつぶされて逃げ出した。今は大丈夫だと支えて待ってくれると言った人が居るし、遠い届かないところから背中を押してくれた存在にも出会って自分は進もうと思えたけれど、他の三人がどうかなんて、鯨伏には推し量れない。「もう、傷付けたくないんですよ。玲央さ……獅子王さんから家族を奪っておいて今更何をと思うけど。でも、痛い思いも苦しい思いも、寂しい思いだってしなくて済むならそれでいいじゃないですか」「アンタはそれでいいワケ?一人で背負い込むつもり?結構しんどいと思うんだけど」「いやいや、背負い込むなんてそんな大層なことできないですよ。物理的な現象で何かあった時に一番前で暴れるくらいしか俺できないですし。でもこれを黙っておくのは、皆に庭師のことを思い出させたくないのと同じくらいに俺にとって忘れたくない大切なことだから。あの子の言葉に救われて。あの存在に祝福されて。その上で全部切って捨てた。それごと全部持って行くと決めたから」かれてしまっても きっとずっと あなたがだいすきよこの言葉を忘れたことなんて一度もない。もういないけれども、自分と一緒に咲いている。彼女も自分の背中を押してくれた存在のひとつだって思っている。だから、彼らが嫌がるならとこの身に咲いた花を切り落とそうだなんてもう思えなかった。なら、自分ができることは彼女も彼も、彼らも全部連れて行くことくらいで。どこまでも止まらず進むことだけなのだ。「クサいかもですけど……腹は括ったんです。今度はもう逃げない、って」「……はー!マジでクサい!!すんげえ真面目な話じゃんそれ!!内容なんて想像の斜め上どころかど垂直!!真上すぎ!!」苦笑する鯨伏にもう限界! と言わんばかりに猪狩が頭を抱えて天を仰いだ。すいません、と呟く鯨伏の紫陽花咲く手を引っつかみ、丁寧に摘み取る。「どう? 痛くない?」「……引っ張られると少し。あと刃物で切られる時はちょっと嫌な感じがします」「神経はちょっと通ってる、ね。血……はもう平気?」「自分のは平気ですよ。というか俺、涼さんの事件より前はスプラッタ平気でしたし」「おっけ、じゃあちょっと血と、花の根の周りの皮膚も少し頂戴。もしかしたら追加で唾液とかも貰うかもだけど、まあ皮膚片と血液あれば十分っしょ。仕事の合間になるから時間はかかるけど結果出たら連絡する……から!!スマホ貸して!!ゼロと俺と神童ちゃんの連絡先いれといちゃる!」「ありがとうございます」そう言ってまだ新しい端末を猪狩に渡す。あれやこれやといじっている間にもうデータを移し終えたのだろう、鯨伏のスマートフォンを渡しながら猪狩は聞いてきた。「もし的場ちゃんと同じだったらどうするの?」「どうもしませんよ。ただちょっと、ざまあみろって思うだけで」「どゆこと?」猪狩が意味がわからない、と首をかしげる。その表情を見て鯨伏は口の端を釣り上げて獰猛に、子供のように得意げに、笑う。きっと、こんなに歪んだ理由で笑うのなんて初めてだ。きっと人からは嫌な顔をされると思うから。嫌われたくなくて。ここにいていい理由が欲しくて。欲しいけれども怖くて言い出せなくて。奪ってしまった事実が恐ろしくて。何もないと思い込んでいて、だから余計に手を伸ばせなくて。『いい子』でいなきゃと、大人になった今ですら思い込んでて。それらを全部噛み砕く。飲み込む。腹の中でどす黒く混ざり合って重く響く。いい感覚ではないのに、抱えて行けると根拠なく思った。「死んでからしか咲けない的場より、生きたまま咲ける俺のが綺麗だろ、ってこと!」――後に猪狩幸太郎はこう思ったらしい。『あいつ、あんなに開き直ったこと言う奴だったっけ?』と。*後日、猪狩から連絡があった。鯨伏の紫陽花と相模原、泉、南から検出された花は類似しているという結果。だが、こうも続いていた。『確かに性質はよく似てると思う。俺は専門じゃないけど。ただ、なんというかアンタの紫陽花はもう少し人間に近い組織を持ってたからもしかしたら独自に進化したのかも。全く同じもんじゃなかったよ』『まあそれはそれとして、ちゃんと話して折り合い付いたら帰ってこいよ! 俺四人揃ったゼロ、そろそろちゃんと見たいんだから!』雨の続く、そんな夜に届いたメッセージだった。畳む#CoC #ネタバレ #庭師
止まりそうになる足を叱咤して歩を進める。周りにはスーツ姿の人間が男女関係なく忙しそうに行き交い、その風景に懐かしさが少しと気まずさが大半、心を占める。何人かは見たことのある人間だったが、どうやら自分には気づいていないらしい。何人かはちらちらと視線を向けるが、それどころではないらしい。すぐに前を向いたり、通話中の携帯端末に意識を向けている。
(案外、スーツ着てればわからないもんなんだな)
鯨伏はそんな光景を、少しずれた思考で見ながら歩いていた。かつて、零課で着ていた服装で署の敷地内を歩く。今日こそは目的の人を見つけなければ。これ以上長引いたら戻りたくなくなってしまう。あの居心地のいい家で、最高という言葉すら足りない友人と過ごす日々に甘えて終わってしまう。
だから、今日は注意されるまで粘る。気まずさだとか、怯える心だとかそんなものはかつて逃げ出したことのツケなのだ。精算しきれるとは到底思えはしないのだが。
そんなことを考えながら、ふと視線をあげて鯨伏は駆け出した。いた、いた!と心が叫ぶ。長身が突然動いたものだからその場にいた数人、もちろん鯨伏が探していた人物も。
しっかりと、視線が合う。その表情が驚愕に染まる。
「い、鯨伏!?」
「――ご無沙汰してます、猪狩さん」
鑑識の猪狩幸太郎に軽く頭を下げた。
*
話がしたいんです。割と大事かも知れない話を。そう鯨伏が猪狩を喫茶店へ誘った。丁度午後から非番だったから、と猪狩もその様子を茶化すことなくついてきてくれる。
チェーン店ではなく個人経営の、閑古鳥が鳴いているようなそんな店。取り敢えず珈琲を頼み、テーブル席で向かい合って座る。からん、とアイスコーヒーに入れられた氷が溶けてグラスの中身を緩くかき混ぜる。そんな様子を見ながら鯨伏は黙り込んでいた。
(……なにから はなし すれば いい? これぇ……!?)
顔面こそ真面目で、そして目を伏せて居る鯨伏だがその脳内は大パニックだった。勇んで来て、神童か猪狩かを探し、ようやく対面でき話をする絶好のチャンスなのに肝心の何を話すかを全く考えていなかったのだ。とにかく動かなければ、早く戻りたいから、戻れなくなる前に。その気持ちだけが早って相手に何を伝え、聞くかを本当に全然考えていなかったのだ。
そんな鯨伏に気付いてか、はたまたグラスに水滴が付いてしまうほどの時間を待たされたことにじれてなのか。先に口を開いたのは猪狩の方だった。
「アンタ、今何してんの?アンタのとこのチーフから鯨伏のことは長期の休職扱いにしてくれって言われたんだけど」
「……」
「退職届、出したんだって?ゼロ全員が謹慎中……あれか、スマホわすれたつって俺とあった時?」
「うぐ」
思わず呻く。そうだった。俺この人に嘘付いたんだった。忘れていた事に対する嫌悪感と罪悪感が腹の底で渦巻く。でも、これは自分でやったことだからと飲み込んで頭を下げる。
「嘘、ついてすいませ」
「で、いつ戻るの?」
「へ?」
鯨伏の謝罪を遮って、猪狩が問いかける。一瞬何を言われたのかわからなくて間抜けた顔で彼を見上げると猪狩もまた不思議そうに鯨伏を見ていた。
「だってその格好で署に来てた、ってことは戻ってくるんだろ?」
「え、あ、その」
「違うの? え、マジで辞めるつもり?」
「い、いや!ちが、違います!戻ります、戻りたいです!!」
え、嘘……俺の読み外れた……!? と大げさに口元を手で覆う猪狩に鯨伏が慌てて前のめりにそう叫ぶ。喫茶店のマスターが迷惑そうに二人を見た。その視線に苦笑いしながら頭を下げて、鯨伏は姿勢を戻す。
「……戻りたいんですけど、その前に狗噛さんには話をしたくて」
「? じゃあ電話でもなんでもして本人呼び出せばよかったじゃん。なんで直で来てんの?」
「前の携帯……解約して……皆の番号諸々無くしまして……」
「………アンタ、バカ?」
「返す言葉もないです、うっす」
しどろもどろにそう返す鯨伏に、猪狩がはぁーーーーーーー、と大げさなくらいにため息を着く。大体おおよそわかったぞ、という表情になったが怯みそうになる己に内心で激励し、鯨伏は言葉を続けた。
「その、零課のみんなに会う前に神童さんか猪狩さんに話しておきたいことがあって」
「何? 番号だったら普通に教えるけど流石に出戻りの仲介までは俺やらないよ? 多分、アンタが自分でしたいからこうやって来たんだろうし」
「はい、それはちゃんと自分で言います。番号もお言葉に甘えて教えて欲しい……ただ、ひとつ調べて欲しいことがあって」
「調べる?何を?」
訝しむ猪狩の目の前で、鯨伏はシャツのボタンと袖口のボタンをひとつずつ外す。その行動に不可解だ、と視線を向けていた猪狩が目を見張る。息を呑む音がする。はらりと、何かが机に落ちる音がする。
鯨伏の耳後ろから首筋を伝い、先程広げたシャツの襟から。緩められた袖口の隙間から鮮やかに紫陽花が咲き誇っていた。人の身体にしっかりと根を張り、瑞々しく咲くそれに言葉を失った猪狩が口をはくはくとさせている。
「……これを、的場のものと同じか調べて欲しいんです」
「え、は? そ、それはいいけど、なんなの、それ……」
「荒唐無稽な話ですけど、聞きます?」
狼狽えながらも鯨伏の状態が気になったのだろう、猪狩が頷く。その反応に目を伏せて口を開く。
思い返すのは、弱っていた紫陽花を見つけたこと。何日かかけて世話をしたこと。それが幼い少女になって、取り込まれそうになったこと――取り込まれそうになっている間、確かに幸せだったこと。
鯨伏は隠し事も嘘も得意ではない。だから包み隠さず全てを話した。傍から聞いていれば荒唐無稽ではすまない、気違いの人間の話に聞こえるだろう。だが、鯨伏は目の前で咲かせてみせたのだ。彼女であった花を。
呆気に取られたままの猪狩が、呆然としたまま言葉を吐く。
「……同じのかどうか調べて、どうすんの?」
「内容次第で、零課に戻ったときみんなに黙っておくか全部言うかを決めます。だって嫌でしょう? あ庭師事件を彷彿させるものがくっついてる奴が居るなんて」
「や、まあ……そりゃそうかもだけどさ……でも黙ってなくても、ゼロなら……あの人たちなら受け入れてくれるっしょ?」
「俺が嫌なんですよ。皆の目に『庭師』の時の色が混ざるのが」
その色は驚愕だった。失望だった。恐怖だった。嫌悪だった。――絶望、だった。
当然、その色は自分にもあった。それに押しつぶされて逃げ出した。今は大丈夫だと支えて待ってくれると言った人が居るし、遠い届かないところから背中を押してくれた存在にも出会って自分は進もうと思えたけれど、他の三人がどうかなんて、鯨伏には推し量れない。
「もう、傷付けたくないんですよ。玲央さ……獅子王さんから家族を奪っておいて今更何をと思うけど。でも、痛い思いも苦しい思いも、寂しい思いだってしなくて済むならそれでいいじゃないですか」
「アンタはそれでいいワケ?一人で背負い込むつもり?結構しんどいと思うんだけど」
「いやいや、背負い込むなんてそんな大層なことできないですよ。物理的な現象で何かあった時に一番前で暴れるくらいしか俺できないですし。でもこれを黙っておくのは、皆に庭師のことを思い出させたくないのと同じくらいに俺にとって忘れたくない大切なことだから。あの子の言葉に救われて。あの存在に祝福されて。その上で全部切って捨てた。それごと全部持って行くと決めたから」
かれてしまっても きっとずっと あなたがだいすきよ
この言葉を忘れたことなんて一度もない。もういないけれども、自分と一緒に咲いている。彼女も自分の背中を押してくれた存在のひとつだって思っている。だから、彼らが嫌がるならとこの身に咲いた花を切り落とそうだなんてもう思えなかった。
なら、自分ができることは彼女も彼も、彼らも全部連れて行くことくらいで。どこまでも止まらず進むことだけなのだ。
「クサいかもですけど……腹は括ったんです。今度はもう逃げない、って」
「……はー!マジでクサい!!すんげえ真面目な話じゃんそれ!!内容なんて想像の斜め上どころかど垂直!!真上すぎ!!」
苦笑する鯨伏にもう限界! と言わんばかりに猪狩が頭を抱えて天を仰いだ。すいません、と呟く鯨伏の紫陽花咲く手を引っつかみ、丁寧に摘み取る。
「どう? 痛くない?」
「……引っ張られると少し。あと刃物で切られる時はちょっと嫌な感じがします」
「神経はちょっと通ってる、ね。血……はもう平気?」
「自分のは平気ですよ。というか俺、涼さんの事件より前はスプラッタ平気でしたし」
「おっけ、じゃあちょっと血と、花の根の周りの皮膚も少し頂戴。もしかしたら追加で唾液とかも貰うかもだけど、まあ皮膚片と血液あれば十分っしょ。仕事の合間になるから時間はかかるけど結果出たら連絡する……から!!スマホ貸して!!ゼロと俺と神童ちゃんの連絡先いれといちゃる!」
「ありがとうございます」
そう言ってまだ新しい端末を猪狩に渡す。あれやこれやといじっている間にもうデータを移し終えたのだろう、鯨伏のスマートフォンを渡しながら猪狩は聞いてきた。
「もし的場ちゃんと同じだったらどうするの?」
「どうもしませんよ。ただちょっと、ざまあみろって思うだけで」
「どゆこと?」
猪狩が意味がわからない、と首をかしげる。その表情を見て鯨伏は口の端を釣り上げて獰猛に、子供のように得意げに、笑う。
きっと、こんなに歪んだ理由で笑うのなんて初めてだ。きっと人からは嫌な顔をされると思うから。
嫌われたくなくて。
ここにいていい理由が欲しくて。
欲しいけれども怖くて言い出せなくて。
奪ってしまった事実が恐ろしくて。
何もないと思い込んでいて、だから余計に手を伸ばせなくて。
『いい子』でいなきゃと、大人になった今ですら思い込んでて。
それらを全部噛み砕く。飲み込む。腹の中でどす黒く混ざり合って重く響く。いい感覚ではないのに、抱えて行けると根拠なく思った。
「死んでからしか咲けない的場より、生きたまま咲ける俺のが綺麗だろ、ってこと!」
――後に猪狩幸太郎はこう思ったらしい。
『あいつ、あんなに開き直ったこと言う奴だったっけ?』と。
*
後日、猪狩から連絡があった。鯨伏の紫陽花と相模原、泉、南から検出された花は類似しているという結果。だが、こうも続いていた。
『確かに性質はよく似てると思う。俺は専門じゃないけど。ただ、なんというかアンタの紫陽花はもう少し人間に近い組織を持ってたからもしかしたら独自に進化したのかも。全く同じもんじゃなかったよ』
『まあそれはそれとして、ちゃんと話して折り合い付いたら帰ってこいよ! 俺四人揃ったゼロ、そろそろちゃんと見たいんだから!』
雨の続く、そんな夜に届いたメッセージだった。畳む
#CoC #ネタバレ #庭師