小説 2024/11/12 Tue 眠り熊様主催「文章力を鍛えたい」への参加作品世界観:時代劇風の世界三題お題:文学/雨/無二の存在続きを読む雨招き 閉ざしていた国が開け、全てが動き出す不安定な時代に生きていたそいつは、何処にでも居るような、平々凡々で、争いごとが苦手。飛び抜けた能力も何もない男だった。親から独り立ちした後は売れない文字書きとその日暮らし、日雇いの仕事をするばかり。当然遠くになど行ける銭があるわけもなく、だからといってこれ以上のことをすると文章が、物語が綴れない。日暮の早い冬などは、特に。油が広まって来ていたとはいえ、庶民である男は大量に使う事を良しとしなかった。 仕事から帰ればくたくたの身体に鞭打って、握り飯や漬物を適当に食らい、又は薄い汁物を欠けた茶碗で啜りながら筆を取り、文字を綴っては墨を滲ませた紙をくしゃりと潰して放り捨てる。そうやって紙屑を増やしてその中で眠り、明るくなれば目を開けて仕事へ向かう。時々完成した物語は、売れない。そうなると、その日は囲炉裏で一枚一枚、荼毘に伏す様に火に焚べていた。 そんな単調で、生きていると言うには小火(ぼや)の様に、目立たない男だった。 雨が降っていた。梅の実が膨らみ、間も無く百姓たちがこぞって獲りこむのだろう。雨も降らない日すら、灰色の雲が毎日のように厚く天を覆って、空気を湿らせている。 雨が続いていた。男の目立たない生活も燻る様に続いていた。身体の節々に痛みが走り思う様動き回れない。男は雨が嫌いだった。時折煩わしそうに灰色を睨みつける。睨みつけたからと言って空が青に染まる訳でもなく、男の気分も晴れることはない。 そんな日が続いた、雨の夜だった。小火が揺れる様な、そんな細やかな非日常が男の前に倒れていたのは。 茶色と黒と、白。まだらの毛並みを持つ小さな生き物が雨と泥に塗れて倒れて伏せている。脚はあらぬ方向へと曲がり、顔にはしつこいくらい泥がこびりついている。本来は艶やかだろう毛並みを黒く汚していた。 男は慌てて駆け寄った。平々凡々な男は目の前で息絶えそうな生き物の、その命が潰える所を見てはいられなかった。そうっと両手で掬い上げて、くったりと動かない生き物にばくばくと心の臓が駆け回る。 そうして、男が拾って来たのは痩せ細った三毛猫だった。男は仕事の合間、筆を取る合間に彼女の様子を診ては死んでしまいやしないだろうか、と冷や冷やした。そういった詳しい者へ診てもらう、という考えは不思議と思いつかなかった。手拭いを割いて、曲がった脚に板を当てて巻きつける。泥で汚れた身体を洗い拭ってやれば力無く閉じた目元からは目やにが消える。漸く猫らしい顔を拝めたと、ここで一旦安心したものだ。 身体も綺麗になり、穏やかに上下する腹にほう、と息を吐く。愛らしい、とは思わなかった。ただ生きていて良かったと安堵した。 しかし、そのまま始まった同居猫との生活は彼女の寝姿程穏やかなものではなかった。まず、気を許してくれない。彼女は男が白飯に味噌だけを溶かした味噌汁をかけたものを持って近寄ろうものならしゃあ、と空気が疾る様な声をあげ、折れている脚の手当てをしようものなら引っ掻かれた。日雇いの仕事から戻れば、半紙をあたりに散らし男を辟易させた。 けれども男は猫を追い出さなかった。怪我が癒えていないのもそうだが、雨が続いていたからだ。正直に言うと、男は何度か放り出してやろうとは思ったのだ。しかし、拾ったあの日の濡れぼそり泥に塗れ、息も絶え絶えの姿が脳裏に浮かんで、追い出してやろうと言う気持ちも萎れる。 それに、猫が浅く眠る前でだと不思議と筆が進むのだ。書いては消し、一作生むのも苦労していたのが一作でき、また生まれ、そうして少しずつ男の物語は売れて行った。 少し癪だが、自分以外の呼吸が聞こえるのは不思議と落ち着く……暴れられるのは、ごめんだが。 そんな少し騒がしくなった日が続いたある日、男は魚売りから魚とかつぶしを買った。仕事は相変わらずだが、物語が売れるようになって少しばかり懐が暖かくなったからだ。毛が抜けて墨を上手く吸えなくなった筆から新しい筆に、押さえに使っていた石から文鎮へと買い換える。その礼という訳ではないが、猫へ何か贈りたくなったのだ。帰宅して、かつぶしを刃こぼれした包丁で削る。最初男にしゃあ、と泣いたきり睨みつけていた猫は、かつぶしの匂いを嗅ぎ取ったのかぴくりと耳をそちらに向けて、男の挙動を見つめていた。 薄く削ったかつぶしを白飯へかけて、菜葉の入った味噌汁をかけて猫の方へやる。猫は、いつも男を警戒して男が寝た後で食べているらしい。だが、今日は違った。 ちら、ちら。忙しなく男と飯を見た後に茶碗へ顔を突っ込んでそのままがっつき出した。余程腹が減っていた、と言えばそれまでだ。しかし、男は緩む口元を抑えられなかった。 今の今迄、ずっと警戒して、唸って、拒絶されてきたのだ。目の前で飯を食わない程に。それが、目の前で飯を食っている。ただそれだけの事が男の心を優しく揺らした。 それからは、共に飯を食う様になった。 手当ての際、痛みから噛みつくことはあれど、その後男がそばにいても猫は唸る事はなく、偶に触れればごろりと喉を鳴らす。怪我が癒え、歩き回る様になる頃には猫から男の膝に座る事が多くなった。時折疎ましくなることもあるが、来なければ来ないで好きにさせている。長屋の石かべを掻いたり、水瓶の上へ乗り涼んでいたり。気ままな彼女の姿を見て、男の筆も進む。 小さな波の様だった。平凡で凪いでいる生活が、心地の良い揺らぎのような。しとしと降り注いでは水溜りに立つ波紋の様な。仕事に行くのも物を書くのも相変わらずだが、心地良かった。 晴れた日の事だった。男が仕事から戻ると長屋が燃えていた。後に聞いた話だとどうやら近所小火が起き、瞬く間に燃え広がったらしい。慌てて元の住処の焼け跡を探す。見つけたかったのは、少ない財でも、新しくした筆でも、気に入っていた文鎮でもない。猫だった。 ねこ、ねこ、と探し回ったがついぞ彼女の姿も骸も見つけることは叶わなかった。 また、凪いだ日々が始まった。新しく借りた住処から仕事に通い、筆を取っては紙屑を増やす。違ったのは、ひとつも物語を完成させられなくなったことだった。何枚も何枚も半紙を黒く汚して捨てていく。いつしか、男は筆を取らなくなった。使われなくなった半紙は火に焚べてしまい、硯で墨を擦ることもなくなった。筆は箪笥の奥へ無造作に入れられる。 生きなくてはならないから仕事だけはした。仕事をして、帰って飯を食らい、寝る。以前に書いていた物語のわずかな収入もいつの間にかなくなっていた。 幾度か同じ季節が巡ったある日の夜。その日もしとしとと雨が降っていた。今年の梅雨は気まぐれだ、だなんて話していたのはどこの誰だったか。そんなことを考えながら寝支度をしているとかりかり、かりかりと戸から音がする。なんだ、こんな夜中に。もののけか? 物取りか? それならそれで構わない。自分はすっかり落ちぶれた。筆も長く取ってはいない、その日暮らしを繰り返して、蓄えだってない。取られるものだって、自分のしようも無い命だけ。だから、怖くない——いや、少し怖いか。そんなことを思いながら戸をひいた。 引いた瞬間、男の目はまんまるに広がって、その足元からにゃおん、と一声。どこか不満そうに響いた。 目の前には、久しく見ることの無かった三色の斑目。大きいのがひとつと、小さいのがよっつ。ころころと転がる泥だらけの命を男は両手で掬って、泣いた。 雨の日が続いた。男は以前の長屋にはもう居ない。武家程では無いが、立派な屋敷に一人と五匹で生きている。 あの時の様に、泥だらけの傷だらけの猫たちを家に入れて洗って、手当てをし、汁物を掛けただけの粟を出してやる。子供たちはそれに食い付いたが、彼女は不満げになぉん、と鳴いて男を見上げる。以前は白米だったのに、と言われている様で。それが懐かしくて、同じものを出してやれないみっともなさで男は泣いた。しょうがないと、のっそり男の膝に掛かった重みと温もりに、また泣いた。 生の凪を終えた男は、今日も筆を執る。傍には三毛猫の彼女が丸くなり耳だけを男に向けていた。 筆先が踊る。 『閉ざしていた国が開け、全てが動き出す不安定な時代に生きていたそいつは、何処にでも居るような、平々凡々で、争いごとが苦手。飛び抜けた能力も何もない男だった。』……。 雨音が、喝采を上げていた。畳む#三題お題
世界観:時代劇風の世界
三題お題:文学/雨/無二の存在
雨招き
閉ざしていた国が開け、全てが動き出す不安定な時代に生きていたそいつは、何処にでも居るような、平々凡々で、争いごとが苦手。飛び抜けた能力も何もない男だった。親から独り立ちした後は売れない文字書きとその日暮らし、日雇いの仕事をするばかり。当然遠くになど行ける銭があるわけもなく、だからといってこれ以上のことをすると文章が、物語が綴れない。日暮の早い冬などは、特に。油が広まって来ていたとはいえ、庶民である男は大量に使う事を良しとしなかった。
仕事から帰ればくたくたの身体に鞭打って、握り飯や漬物を適当に食らい、又は薄い汁物を欠けた茶碗で啜りながら筆を取り、文字を綴っては墨を滲ませた紙をくしゃりと潰して放り捨てる。そうやって紙屑を増やしてその中で眠り、明るくなれば目を開けて仕事へ向かう。時々完成した物語は、売れない。そうなると、その日は囲炉裏で一枚一枚、荼毘に伏す様に火に焚べていた。
そんな単調で、生きていると言うには小火(ぼや)の様に、目立たない男だった。
雨が降っていた。梅の実が膨らみ、間も無く百姓たちがこぞって獲りこむのだろう。雨も降らない日すら、灰色の雲が毎日のように厚く天を覆って、空気を湿らせている。
雨が続いていた。男の目立たない生活も燻る様に続いていた。身体の節々に痛みが走り思う様動き回れない。男は雨が嫌いだった。時折煩わしそうに灰色を睨みつける。睨みつけたからと言って空が青に染まる訳でもなく、男の気分も晴れることはない。
そんな日が続いた、雨の夜だった。小火が揺れる様な、そんな細やかな非日常が男の前に倒れていたのは。
茶色と黒と、白。まだらの毛並みを持つ小さな生き物が雨と泥に塗れて倒れて伏せている。脚はあらぬ方向へと曲がり、顔にはしつこいくらい泥がこびりついている。本来は艶やかだろう毛並みを黒く汚していた。
男は慌てて駆け寄った。平々凡々な男は目の前で息絶えそうな生き物の、その命が潰える所を見てはいられなかった。そうっと両手で掬い上げて、くったりと動かない生き物にばくばくと心の臓が駆け回る。
そうして、男が拾って来たのは痩せ細った三毛猫だった。男は仕事の合間、筆を取る合間に彼女の様子を診ては死んでしまいやしないだろうか、と冷や冷やした。そういった詳しい者へ診てもらう、という考えは不思議と思いつかなかった。手拭いを割いて、曲がった脚に板を当てて巻きつける。泥で汚れた身体を洗い拭ってやれば力無く閉じた目元からは目やにが消える。漸く猫らしい顔を拝めたと、ここで一旦安心したものだ。
身体も綺麗になり、穏やかに上下する腹にほう、と息を吐く。愛らしい、とは思わなかった。ただ生きていて良かったと安堵した。
しかし、そのまま始まった同居猫との生活は彼女の寝姿程穏やかなものではなかった。まず、気を許してくれない。彼女は男が白飯に味噌だけを溶かした味噌汁をかけたものを持って近寄ろうものならしゃあ、と空気が疾る様な声をあげ、折れている脚の手当てをしようものなら引っ掻かれた。日雇いの仕事から戻れば、半紙をあたりに散らし男を辟易させた。
けれども男は猫を追い出さなかった。怪我が癒えていないのもそうだが、雨が続いていたからだ。正直に言うと、男は何度か放り出してやろうとは思ったのだ。しかし、拾ったあの日の濡れぼそり泥に塗れ、息も絶え絶えの姿が脳裏に浮かんで、追い出してやろうと言う気持ちも萎れる。
それに、猫が浅く眠る前でだと不思議と筆が進むのだ。書いては消し、一作生むのも苦労していたのが一作でき、また生まれ、そうして少しずつ男の物語は売れて行った。
少し癪だが、自分以外の呼吸が聞こえるのは不思議と落ち着く……暴れられるのは、ごめんだが。
そんな少し騒がしくなった日が続いたある日、男は魚売りから魚とかつぶしを買った。仕事は相変わらずだが、物語が売れるようになって少しばかり懐が暖かくなったからだ。毛が抜けて墨を上手く吸えなくなった筆から新しい筆に、押さえに使っていた石から文鎮へと買い換える。その礼という訳ではないが、猫へ何か贈りたくなったのだ。帰宅して、かつぶしを刃こぼれした包丁で削る。最初男にしゃあ、と泣いたきり睨みつけていた猫は、かつぶしの匂いを嗅ぎ取ったのかぴくりと耳をそちらに向けて、男の挙動を見つめていた。
薄く削ったかつぶしを白飯へかけて、菜葉の入った味噌汁をかけて猫の方へやる。猫は、いつも男を警戒して男が寝た後で食べているらしい。だが、今日は違った。
ちら、ちら。忙しなく男と飯を見た後に茶碗へ顔を突っ込んでそのままがっつき出した。余程腹が減っていた、と言えばそれまでだ。しかし、男は緩む口元を抑えられなかった。
今の今迄、ずっと警戒して、唸って、拒絶されてきたのだ。目の前で飯を食わない程に。それが、目の前で飯を食っている。ただそれだけの事が男の心を優しく揺らした。
それからは、共に飯を食う様になった。
手当ての際、痛みから噛みつくことはあれど、その後男がそばにいても猫は唸る事はなく、偶に触れればごろりと喉を鳴らす。怪我が癒え、歩き回る様になる頃には猫から男の膝に座る事が多くなった。時折疎ましくなることもあるが、来なければ来ないで好きにさせている。長屋の石かべを掻いたり、水瓶の上へ乗り涼んでいたり。気ままな彼女の姿を見て、男の筆も進む。
小さな波の様だった。平凡で凪いでいる生活が、心地の良い揺らぎのような。しとしと降り注いでは水溜りに立つ波紋の様な。仕事に行くのも物を書くのも相変わらずだが、心地良かった。
晴れた日の事だった。男が仕事から戻ると長屋が燃えていた。後に聞いた話だとどうやら近所小火が起き、瞬く間に燃え広がったらしい。慌てて元の住処の焼け跡を探す。見つけたかったのは、少ない財でも、新しくした筆でも、気に入っていた文鎮でもない。猫だった。
ねこ、ねこ、と探し回ったがついぞ彼女の姿も骸も見つけることは叶わなかった。
また、凪いだ日々が始まった。新しく借りた住処から仕事に通い、筆を取っては紙屑を増やす。違ったのは、ひとつも物語を完成させられなくなったことだった。何枚も何枚も半紙を黒く汚して捨てていく。いつしか、男は筆を取らなくなった。使われなくなった半紙は火に焚べてしまい、硯で墨を擦ることもなくなった。筆は箪笥の奥へ無造作に入れられる。
生きなくてはならないから仕事だけはした。仕事をして、帰って飯を食らい、寝る。以前に書いていた物語のわずかな収入もいつの間にかなくなっていた。
幾度か同じ季節が巡ったある日の夜。その日もしとしとと雨が降っていた。今年の梅雨は気まぐれだ、だなんて話していたのはどこの誰だったか。そんなことを考えながら寝支度をしているとかりかり、かりかりと戸から音がする。なんだ、こんな夜中に。もののけか? 物取りか? それならそれで構わない。自分はすっかり落ちぶれた。筆も長く取ってはいない、その日暮らしを繰り返して、蓄えだってない。取られるものだって、自分のしようも無い命だけ。だから、怖くない——いや、少し怖いか。そんなことを思いながら戸をひいた。
引いた瞬間、男の目はまんまるに広がって、その足元からにゃおん、と一声。どこか不満そうに響いた。
目の前には、久しく見ることの無かった三色の斑目。大きいのがひとつと、小さいのがよっつ。ころころと転がる泥だらけの命を男は両手で掬って、泣いた。
雨の日が続いた。男は以前の長屋にはもう居ない。武家程では無いが、立派な屋敷に一人と五匹で生きている。
あの時の様に、泥だらけの傷だらけの猫たちを家に入れて洗って、手当てをし、汁物を掛けただけの粟を出してやる。子供たちはそれに食い付いたが、彼女は不満げになぉん、と鳴いて男を見上げる。以前は白米だったのに、と言われている様で。それが懐かしくて、同じものを出してやれないみっともなさで男は泣いた。しょうがないと、のっそり男の膝に掛かった重みと温もりに、また泣いた。
生の凪を終えた男は、今日も筆を執る。傍には三毛猫の彼女が丸くなり耳だけを男に向けていた。
筆先が踊る。
『閉ざしていた国が開け、全てが動き出す不安定な時代に生きていたそいつは、何処にでも居るような、平々凡々で、争いごとが苦手。飛び抜けた能力も何もない男だった。』……。
雨音が、喝采を上げていた。畳む
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